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一条真也
「礼は究極の平和思想〜今こそ心ゆたかに」

 

こんにちは、一条真也です。
予定されていたテレビ出演が急遽延期になりました。
じつは、9月末から10月の初めにかけて、某テレビ局の取材がわが社に入るはずでした。孔子の生涯と『論語』の教えを紹介した正月特番の取材で、来年1月に全国放映される予定でした。
孔子の「礼」の思想を実践している会社ということで、わが社は数日間にわたって取材を受け、社長のわたしがインタビューで孔子の思想とわが社の経営理念について大いに語るという構成でした。
ところが、9月の後半になって「取材も放映も延期になった」との連絡が入りました。取材受け入れの準備も着々と進んでおり、わたしも大変驚きました。
なぜ、このような事態になったのか。 番組の制作会社の説明によれば、昨今の日中関係の悪化が最大の原因だそうです。この番組は中国国営テレビとの共同企画ということもあって、企画そのものが難しくなったようです。まことに残念ですが、たしかに現在における日本と中国との関係は最悪であると言っても過言ではないでしょう。
日本の尖閣諸島の国有化問題で、中国ではこれまでにない大規模な反日デモが繰り広げられ、多くの日系企業が襲われました。トヨタをはじめ、パナソニック、イオン、ユニクロなどの工場や店舗が次々に破壊され、商品を略奪される光景をニュースで見て、呆然とした人も多いと思います。
わたしは、もともと土地を私的所有するという発想にはなじめず、「領土」という考え方に対しても違和感があります。なぜなら、すべての土地は地球からの借り物であると思っているからです。元来は地球のものですから、所有地といえども所有者の勝手にはできないと思っています。
しかし、それはそれとして、他国の領土に勝手に足を踏み入れる行為は許されません。
歴史的に見ても、また国際法上も、尖閣諸島は明らかに日本固有の領土です。にもかかわらず、無法を繰り広げる中国の人々やそれを黙認する中国政府を見ていると、怒りを通り越して悲しくなります。
混乱のさなか、台湾の漁船まで尖閣に抗議に来ました。
無法国家なのは、中国だけではありません。
8月19日、なんと韓国は島根県の竹島(韓国名は独島)で李明博大統領直筆の石碑の除幕式を行いました。これは、もう悪質な挑発行為以外の何物でもありません。
いくら軍事力ではかなわなくとも、日本は国際社会に対して「間違っていることは間違っている。正しいことは正しい」と言い続けなければなりません。
中国や韓国は、日本にとっての隣国です。隣国というのは、好き嫌いに関わらず、無関係ではいられません。人間も同じで、いくら嫌いな隣人でも会えば挨拶をするものです。それは、人間としての基本でもあります。そして、この人間としての基本を「礼」というのです。中国や韓国が崩したものは国際法という「法」だけではありません。「法」よりも大切な「礼」というものを崩しました。
「礼」とは、2500年前の中国の春秋戦国時代において、他国の領土を侵さないという規範として生まれたものだとされています。その「礼」の思想を強く打ち出した人物こそ孔子です。そして、逆に「礼」を強く否定した人物こそ秦の始皇帝でした。
それは、始皇帝は自ら他国の領土を侵して中国を統一する野望を抱いていたからです。彼は『論語』をはじめとする儒教書を焼き払い、多くの儒者を生き埋めにしました。世に言う「焚書坑儒」です。これは人類史上に残る愚行とされています。
しかし、始皇帝が築いた秦帝国はわずか14年間しか続きませんでした。
しょせんは「人の道」を踏み外した人間の作った国など、長続きしなかったのです。
現在の中国は世界一の「礼」なき国と言えるかもしれません。
「礼」の重要性を唱えた孔子や孟子もあの世で泣いていることでしょう。
冠婚葬祭という営みの中核となるのも、なんといっても「礼」です。
わたしは、日頃から「礼」とはマナーというよりもモラル、平たく言って「人の道」であると言っています。
原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。相手が仲間だとわかったら、抱き合ったり、敬意を示すために平伏したりしました。このような行為が「礼」の起源でした。「礼」こそは最強の護身術であるとともに、究極の平和思想としての「人類の道」だと思います。
この10月から「毎日新聞」でコラムの連載をスタートさせたのですが、その第1回目は「ハートフルとは何か」というテーマでした。わたしは1988年に最初の著作である『ハートフルに遊ぶ』を書きました。「ハートフル」という言葉は流行語になり、その後、北九州市のスローガンにもなりました。
その「ハートフル」とは、じつは「礼」の同義語でもあるのです。
「礼」は、儒教の神髄ともいえる思想です。それは、後世、儒教が「礼教」と称されたことからもわかるでしょう。そもそも「礼(禮)」という字は、「示」と「豊」とから成っています。漢字の語源にはさまざまな説がありますが、「示」は「神」という意味で、「豊」は「酒を入れた器」という意味があるといいます。つまり、酒器を神に供える宗教的な儀式を意味します。
古代には、神のような神秘力のあるものに対する禁忌の観念があったので、きちんと定まった手続きや儀礼が必要とされました。これが、「礼」の起源だと言われているのです。 ところが、もうひとつ、「礼」には意味があります。「示」は「心」であり、「豊」はそのままで「ゆたか」だというのです。ということは、「礼」とは「心ゆたか」、つまるところ「ハートフル」ということになります。
日本、韓国、中国、台湾も含めて東アジア諸国の人々の心には孔子の「礼」の精神が流れているはずです。今こそ、その究極の平和思想としての「礼」を思い起こし、互いの国民が心ゆたかになる努力をすべきでしょう。いずれ孔子特番が実現したら、そのことをインタビューでぜひ語りたいです。
2012.10.15