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一条真也
「知覧特攻平和会館〜武士道といふは死ぬ事」

 

こんにちは、一条真也です。
先日、鹿児島市内で講演を行いました。
テーマは「グリーフケアの時代」でした。
その翌日、わたしは鹿児島県南九州市の知覧へと向かいました。言うまでもなく、知覧は太平洋戦争(大東亜戦争)末期に編成された大日本帝国陸軍の特別攻撃隊の基地があった場所です。
ここには「知覧特攻平和会館」があり、写真、遺書などの遺品約4500点、特攻隊員の遺影1036柱などが展示されています。
同会館の公式HPには「知覧特攻平和会館とは」というページがあり、以下のように説明されています。
「この知覧特攻平和会館は、大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの犠牲によって今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。特攻隊員達が二度と帰ることのない『必死』の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設した次第であります」
わたしは、2005年10月にサンレー宮崎の社内旅行で「知覧特攻平和会館」を訪れてから、じつに7年ぶりの訪問でした。最初に訪れる前は、「広島平和記念資料館」や沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」のごとく戦争の悲惨な記憶をとどめる資料館として特攻平和記念館をイメージしていました。しかし、一歩館内に入るなり、わたしの身体は凍りついたような状態になりました。
そこには千を超える死者の遺影や遺書や辞世の歌などが展示されていました。遺書や辞世に書かれた字および内容はどれも立派で、現在の若者のそれとは比較にもなりません。どれにも、自分は死んでゆくけれども、残った家族や国民には健康で幸福な人生を送ってほしいというメッセージが記されていました。よく言われるように、それは軍国主義における洗脳教育のたまものかもしれません。でも、たしかに「自己犠牲」という武士道の伝統を私はそこに見たのです。
南の空に散っていった神風特攻隊の少年や青年たちは、たしかにサムライでした。
出撃の前日、数名の少年兵たちが子犬を囲んでいる有名な写真があります。朝日新聞の記者に求めに応じて撮影された写真ですが、明日出撃の命令を受けた直後の17、18の少年たちが、やさしい笑顔で捨てられた子犬を慰めているのです。
明日、確実に死ぬとわかっているのに、子犬に思いやりをかける!
わたしは、この写真を見たとき、泣けて泣けて仕方がありませんでした。
『葉隠』には「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とあります。
かつての武士たちは常に死を意識し、そこに美さえ見出したのです。
生への未練を断ち切って死に身に徹するとき、その武士は自由の境地に到達するといいます。そこでもはや、生に執着することもなければ、死を恐れることもなく、ただあるがままに自然体で行動することによって武士の本分を全うすることができ、公儀のためには私を滅して志を抱けたのです。
「武士道といふは死ぬ事」の一句は、じつは壮大な逆説です。
それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学の箴言なのです。そして、まさにその生の哲学を、わたしは知覧の特攻平和会館でくっきりと見せつけられました。
特攻隊員は自ら死を望んだのではなく、軍部によって殺されただけではないかという意見もあろうかと思います。しかし、おそらくほとんどが死の前日に撮影されたであろう彼らの遺影には、一切を悟った禅僧のような清清しさがありました。彼らは、決して犬死にをしたのではなく、その死は武士の切腹であったと確信します。いくら長生きしても、だらだらと腐ったような人生を送る者もいますが、彼らは短い生を精一杯に生き、精一杯に死んでいったように思います。
以前、大ベストセラーにして超ロングセラーの小説『永遠の0』(講談社文庫)を読みました。放送作家でもある著者・百田尚樹氏の筆力に圧倒され、600ページ近い文庫本を一気に一晩で読了しました。
主人公は、司法試験を4年連続で落ちた佐伯健太郎という青年です。不本意ながらもニートの日々を送る彼は、ジャーナリストの姉から特攻で死んだ祖母の最初の夫について調べてほしいと持ちかけられます。「祖母の最初の夫」とは、健太郎と姉にとっての本当のおじいちゃんであり、名を宮部久蔵といいました。暇を持て余していた健太郎は、気軽な気持ちで調査を請け負います。祖父の知人たちのもとを訪れ、話を聞くのです。しかし、終戦から60年を過ぎ、久蔵を知る人々もみな年老いていました。
余命わずかな人々から話を聞くうち、飛行機乗りとして「天才だが臆病者」などと呼ばれた祖父の真の姿が次第に浮き彫りになっていきます。
久蔵は、結婚して間もない妻と、出征後に生まれた娘を故郷に残していました。
 「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」と言い続け、絶対に家族の元に帰るという強い信念を抱いていたのに、終戦の一週間前に、あの神風特攻隊で久蔵は亡くなってしまいます。
『永遠の0』のゼロは「零戦」のゼロです。皇紀2600年の末尾のゼロをつけた世界最高の性能を誇る戦闘機、それが零戦でした。 正式名称は「三菱零式艦上戦闘機」ですが、小回りがきき、当時では飛距離が桁外れでした。ただ、悲しいのは搭乗する人間のことがまったく考えられていなかったことでした。戦闘機という機械の開発にのみ目を奪われていた大日本帝国は、兵士という人間に対する視点が決定的に欠けていたのです。
現在、宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」が公開中ですが、主人公はゼロ戦の設計者である堀越二郎です。「飛行機は美しい夢であり、呪われた夢である」という映画の登場人物カブローニのセリフを聞いて、わたしは複雑な心境になりました。
今回、久々に知覧特攻平和会館を訪れ、わたしは涙を流しました。英霊たちに心からの鎮魂の祈りを捧げました。「この方々に恥じないような人生を送りたい」「少しでも世のため人のために尽くしたい」という想いが心の底から強く湧いてきました。そして、謹んで次の歌を詠みました。
「若くして散りし桜の跡に立ち もののふどもの在りし日おもふ」(庸軒)
わたしは、背筋を伸ばして、この平和会館を後にしました。
祖国のために、また愛する者たちのために、若い命を散らせたすべての特攻隊員の皆様の御冥福を心よりお祈りいたします。 合掌
2013.8.1