54
一条真也
「葬式に迷う日本人へ」

 

 宗教学者の島田裕巳氏とわたしの共著『葬式に迷う日本人』(三五館)が刊行された。互いに2通ずつ書簡を交わした後、巻末で対談している。今年3月に上梓した『死ぬまでにやっておきたい50のこと』(イースト・プレス)の巻末付録「一条真也が死ぬまでにやりたい50のこと」には「島田裕巳さんと『葬儀』について対談する」という項目もあったのだが、その願いは早くも実現した。
 島田氏は「0葬」というものを唱えている。通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」である。
 わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じている。故人の魂を送ることはもちろんだが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれる。
 もし葬儀が行われなければ、配偶者や子ども、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きることだろう。
 葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなる。葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのである。
 しかしながら、わたしは葬儀も時代に合わせて変わっていくべきだと考えている。実際、長い歴史の中で葬儀は大きく変わってきた。
 「マネジメントの父」と呼ばれるピーター・ドラッカーは、企業が繁栄するための条件として、「継続」と「革新」の2つが必要だと述べた。これは、企業だけでなく、業界や文化にも当てはまることであると思う。
 良いものはきちんと継続してゆく。時代の変化に合わせて変えるべきところは革新する。葬儀という文化にも、「継続」と「革新」が欠かせないと思うのである。
 わたしは、葬儀についての考え方が正反対の島田氏と激論を交わした。島田氏との対談を終え、「葬儀は人類の存在基盤」という自説が間違っていないことを改めて確信した。