悌のマネジメント
一条真也
「年少者の想いと年長者の信頼」

 

 私には弟が1人います。兄と違って優秀な弟で、東大法学部を卒業した後は、大手都市銀行で働いていました。現在は、私が社長で、弟は社長室長ですが、性格は同じ両親の子とは思えないほど正反対です。
 同じ会社に兄弟がいるのは良くないという人がいます。必ず対立して会社がおかしくなるというのです。なるほど、古くは源頼朝・義経から近年の若貴まで、日本人は兄弟を対立構造で見るのが好きなようです。
 しかし、私は非常に弟を頼りにしています。企画・営業向きの私と、財務・管理向きの弟とは、足らない部分をうまく補い合っており、いつまでも一緒に仕事ができたらと心から願っています。
 よきパートナーが自分の実弟だった例として知られているのが武田信玄・信繁兄弟です。父は武田信虎。甲斐源氏の嫡流ですが、甲斐一国では我慢できず、しきりに信濃を侵略しました。粗暴な性格で、領民をいじめる暴君でした。子どものなかでは信繁を溺愛し、分別くさい信玄を露骨に嫌いました。食い物でも玩具でも、いい物は全部信繁に与え、戦場ではたびたび信玄を死地に追いやっています。信玄はひたすら耐えました。この様子を重臣たちがじっと見つめていましたが、誰よりも弟の信繁が見つめていました。
 信虎は信繁に武田家を継がせる気でしたが、信繁の心は違いました。武田家の家法にはすべて中国の儒家の言葉が引用されており、信繁は儒学に造詣が深かったのです。当然ながら「悌(てい)」という思想を知っており、兄を超えて弟が家を継ぐなどという発想はそもそも信繁にはなかったのです。
 父の意思がはっきりしているのですから、その気になれば武田家は信繁のものになったでしょう。しかし、彼は一貫して信玄に尽くしました。これは本物であり、信玄にしても疑いようがありません。
 天文10年(1541年)、信虎は「武田家は信玄でなく、弟信繁に継がせる」と発表しました。途端に信玄はクーデターを起こし、ほとんどの重臣が信玄に味方しました。
 そして信繁も兄の信玄に味方しました。信繁の背信を予想していなかった信虎は、まさに飼い犬に手を噛まれた心境で北条領に放逐されました。
 上杉謙信が「武田信玄の大罪」として挙げる信玄の父追放ですが、親不孝の度合いから言えば、信玄より信繁のほうが罪が深いでしょう。
 しかし信繁は、武田家という組織を守り、家臣団と領民の生活を保障できるのは父でも自分でもなく、兄の信玄だと思っていたのです。これこそ私情に溺れない戦国精神そのものです。