112
一条真也
「横綱は神なのか?」

 

 昨年、わたしが最も注目したのは大相撲である。日馬富士の暴行事件に始まった一連の騒動は「貴乃花親方vs.白鵬」の構図に集約されてきた。 
 わたしは、白鵬ほど横綱にふさわしくない力士はいないと思う。言いたいことは山ほどあるが、最も憤慨したのが、先の九州場所11日目での行為だ。結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし続け、勝負後の礼をしないという前代未聞の振る舞いをしたことである。 
 長い大相撲の歴史でも、横綱の品格が最も損なわれた瞬間であった。相撲の原則は「礼に始まり礼に終わる」であり、礼をしないで横綱が土俵を下りるなど言語道断!  
 白鵬は、『相撲よ!』という著書で、「横綱が土俵入りをすることが、なぜ神事となるのか」という問いに対し、「横綱が力士としての最上位であるからだ」と即答し、さらに「そもそも『横綱』とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る『注連縄』のことである。さらにその綱には、御幣が下がっている。これはつまり、横綱は『現人神』であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである」と述べている。 
 この「現人神」という言葉は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味し、戦前までは「天皇」を指した。この言葉を使うからには、白鵬は「横綱」を神であるととらえているのであろう。 
 わたしは、ここに「礼をしない横綱」の秘密があると思った。なぜなら、神であれば人間である対戦相手に礼をする必要などないからだ。 
 一方で、貴乃花親方はつねづね「土俵には神様がおられる」と述べている。横綱という存在を神であるとはとらえていないのだ。 「横綱≠神」と考える貴乃花親方、
 「横綱=神」と考える白鵬・・・・・・この両者の横綱観にこそ、2人の大横綱の考え方の違いが最も明確に表れているのではないだろうか。