2005
12
株式会社サンレー

 代表取締役社長

  佐久間 庸和

「始皇帝の夢、アレクサンダーの志

 東西二大英雄の心を読む」

 ●中国を統一した始皇帝 

 中国に行ってきました。毎年、上海や広州の交易会に参加するため中国に行くのですが、今回は出張の合間を縫って、念願の兵馬俑訪問をついに果たしました。
 兵馬俑とは、言わずと知れた秦の始皇帝の死後を守る地下宮殿です。二重の城壁を備えた始皇帝の巨大陵墓の下には、土で作られた兵士や馬の人形が立ち並んでいます。実に8,000体におよぶ平均180センチの兵士像が整然と立ち並ぶさまはまさに圧巻で、「世界第八の不思議」などと呼ばれていることも納得できます。この兵馬俑を呆然とながめながらも、私はさまざまなことを考えました。
 春秋・戦国の舞台は、それが当時の全世界でした。秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓、すなわち「戦国の七雄」がそのまま続いていれば、その世界は七つほどの国に分かれ、ヨーロッパのような形で現在に至ったことでしょう。当然ながらそれぞれの国で言葉も違ったはずです。そうならなかったのは、秦の始皇帝が天下を統一したからでした。その意味で、始皇帝は中国そのものの生みの親と言えます。
 中国を知ろうと思えば、それを生んだ秦の始皇帝を知らなければなりません。彼は前人未到の大事業を成し遂げましたが、その死後、彼の大帝国は脆くも崩壊してしまいました。とはいえ、統一の経験は、中国の人々の胸に強く、そして長く残りました。
 三国時代、南北朝、宋金対峙など、中国はその後しばしば分裂しましたが、そのときでも、誰もがこれは常態ではないと思っていたのです。中国が一つであることこそ、本来の自然な姿であると思っていたのです。これは、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペインなどの国々に分かれ、20世紀の終わりになってやっとEUという緩やかな共同体が誕生したヨーロッパの歴史を考えると、本当にものすごいことです。よほど強烈なエネルギーがなければ、中国統一のような偉業を達成することはできませんし、一人の人間が発したそのエネルギーの量たるや、私などには想像もつきません。
 中国すなわち当時の世界そのものを統一するとは、どういうことか。他の国々をすべて武力で打ち破ったことは言うまでもありませんが、それだけでは天下統一はできません。
 始皇帝は度量衡(どりょうこう)を統一し、「同文」で文字を統一し、「同軌」で戦車の車輪の幅を統一し、郡県制を採用しました。そのうちのどれ一つをとっても、世界史に残る難事業です。その難易度たるや郵政民営化などの比ではない。始皇帝は、これらの巨大プロジェクトをすべて、しかもきわめて短い期間に一人で成し遂げたわけです。
 かくして、広大な中国は統一され、彼はそのシンボルとして「皇帝」という言葉を初めて使いました。以後、王朝や支配民族は変われど、中国の最高権力者たちは20世紀の共産主義革命が起こるまで、ずっと皇帝を名乗り続けました。すなわち、秦の始皇帝がファースト・エンペラーであり、清の宣統帝溥儀がラスト・エンペラーでした。この二人の皇帝の間には2000年を超える時間が流れています。
 また、始皇帝は二つの水利工事や阿房宮という未完の宮殿を造ろうとしたことでも知られていますが、何と言っても有名なのが、かの万里の長城です。いま残っているのは明時代のもので、始皇帝の時代はもう少し原始的なものだったそうですが、それにしても国境線をすべて城壁にするというのは、実に雄大な英雄ならではの発想です。月から地球をながめるというのは私の人生最大の夢ですが、万里の長城こそは月面から肉眼で見える唯一の人工建造物だと俗に言われています。この上ない壮大なスケールと言う他はありません。

人類史上もっとも不幸な人物

 それほど絶大な権力を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福なものではありませんでした。それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ私は思います。
 なぜか。それは、彼が「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。
 始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。そのことは世の常識を超越した死後の軍団である兵馬俑の存在や、徐福に不老不死の霊薬をさがせたという史実が雄弁に物語っています。
 中国統一という誰もなしえなかった巨大プロジェクトを成功させながら、その晩年は、ひたすら生に執着し、死の影に脅え、不老不死を求めて国庫を傾け、ついには絶望して死んだ。そして、その墓は莫大な財を費やし、多くの殉死者を伴うものでした。
 兵馬俑とは、不老不死を求め続けた始皇帝の哀しき夢の跡に他ならないのです。

 不老不死 求めてあがく 夢の跡
    まこと哀しき 兵馬俑かな   庸軒

 いくら権力や金があろうとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とはまったくの無縁です。逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、老いる覚悟と死ぬ覚悟を持っている人は心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生かといえば、疑いなく後者でしょう。心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティを実現するには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのです。そのことを兵馬俑をながめながら、考えました。
 ある意味では、異常なまでに「老い」と「死」を怖れたからこそ、現実的にはあれほどの大事業を遂行するエネルギーが生まれたのかもしれません。始皇帝は天下を統一し、皇帝となりましたが、それまで誰もが使っていた「朕」という言葉を、皇帝以外は使ってはいけないとするなど、皇帝の絶対化を図りました。皇帝の絶対化は国家を運営していく上で必要なことでしたが、始皇帝は次第に自分を絶対的な存在であると考えるようになっていったのです。天下統一の大事業を成し遂げた自分は、普通の人間ではない、絶対者であるという気になっていったのです。絶対者とは、具体的に言えば、不老不死の人間、つまり神や仙人のような存在です。
 そして、絶対者となるための秘儀である「封禅(ほうぜん)の儀式」を泰山であげようとしました。ところが、長いあいだ泰山での封禅は行なわれていなかったので、儀式のやり方がわからなくなっていました。『論語』に、「三年礼を行なわなければ礼は廃(すた)れてしまう、三年楽を奏さなければ楽は滅びる」という言葉があります。それを、3年どころか五百数十年ものあいだやっていないのですから、封禅についてわからなくなったのは当然です。
 始皇帝はいろいろな人に尋ねました。主として礼の専門家である儒者でしたが、言うことがみな違っていました。ある人は、蒲(がま)という柔らかいものを車輪に巻きつけて山に登るのだといいますし、藁(わら)の皮を一つひとつ取ってそれでゴザのようなものを作り、その上で儀式を行なうのだという人もいました。
 そこで始皇帝は、儒者の言うことなど聞かず、自分の思い通りに儀式を行なったのです。このことがあってから、儒者の言うことなどアテにならないと、始皇帝は儒者に対する不信感をつのらせました。これがのちの焚書坑儒の遠因になるのです。儒教書を焼き(焚書)480人もの儒者を穴に埋めた(坑儒)ことは、人類史上でも名高い愚行です。しかし、この愚行の底には性善説と性悪説、さらには「礼」と「法」というきわめて重要な思想的問題が潜んでいます。

性善説と性悪説

 春秋・戦国時代というのは、いろいろな思想が花開いた時期で、さまざまな人がさまざまな説を唱えて論争しました。これを「百家争鳴」といいますが、なかでも後世にもっとも大きな影響を残したのが、言うまでもなく孔子の儒教です。孔子は周の「礼楽」を復興しようとして苦心しました。つまり先王の道、周の時代の道を理想とし、昔の礼の秩序を回復しようという考えです。
 孔子の弟子のなかの子夏(しか)あるいは子游(しゆう)という人々の思想のなかから、始皇帝とほぼ同時代に荀子という人が現われました。荀子は孟子とよく対比されます。孟子は、人間はもともと良い性質を持っているのだという性善説を唱えました。それに対して荀子は、人間の本性は悪であって、善というのは「偽り」であると主張しました。ここで言う「偽り」は、現在の私たちが言う「偽り」(にせ)ではなく、ニンベン(つまり、人)にタメ(為)と書く「人為」、つまり後天的という意味です。先天的には人間の性は悪であるが、後天的に良くなるのだというのです。
 孔子から孟子に流れている説では「礼」を非常に重んじますが、荀子は「法」を重んじます。人間の性は悪であるから、この悪を法によって抑えようという考えです。
 荀子の門下からいろいろな弟子が出ています。秦の政治を支えた宰相の李斯(りし)や『韓非子(かんぴし)』で有名な韓非もそうです。荀子の性悪説に学んだ李斯は、世襲あるいは血縁で結ばれた、いわゆる封建勢力の制約というものを排除しようとしました。才能さえあれば、たとえ自分が殺した者の子でも重用してかまわない。血縁を重視したり、コネなど私的な情で政治を行なうのはよくない、ということを言っています。そして「偽」というもの、後天的なものを尊ぶのです。本来は悪である人の性を法によって正すというのが基本的な考え方です。
 性悪説の基本的な理論とは、次のようなものです。もしも性善説で言うように人間がすべて善人であるなら、聖人などいらないではないか。聖人というのは王、聖天子のことで、聖人が人々を教え導くことになるのですが、性善説ならば教え導く必要はない。もともと悪いことをする素地があるから、良い方向に導く必要があるのだ、というのです。ですから、性悪説では、君臣関係を重んじ、君主の権力の強化が考えられることになります。
 いわば、人間主義でもありますし合理主義でもありますが、これが荀子の説を離れて、法家の説となりました。もともと、秦には法家の伝統があります。商鞅が法律万能、厳罰主義を政治の基本とし、それで秦が強くなったことはよく知られています。秦にはもともと法家の説に基づいて政治をやってきたという伝統があり、李斯はその伝統にしたがって秦の政治に携わったわけです。
 李斯と同じく荀子の門下生であった韓非は「東洋のマキャヴェツリ」などと呼ばれますが、その著作『韓非子』を読んだ始皇帝は非常に感激し、こんな素晴らしい人と会ってつきあえるものなら死んでも本望だというほど惚れ込みました。しかし、実際に会ってみると、口下手な韓非に失望したと言われています。その後、韓非はその才能を怖れた李斯の陰謀により非業の死を遂げています。
 私は始皇帝が法家の説を重んじたことは、なにより彼が「礼」という思想を徹底的に嫌っていたからだと考えています。古代中国における「礼」とは、他国との境界線に関わる政治的概念でもありました。転じて他者に対する敬意や思いやりの意味が強くなりましたが、本来は他の領土を侵犯しないことから生まれた概念だったのです。次々に周辺諸国に戦争を仕掛け、打ち破っていった始皇帝がこのような「礼」の思想を好むはずがありません。「礼」の影響力が弱まったからこそ、戦国時代がはじまったとも言えるでしょう。

礼を忘れ、人の道を外れる

  「礼」という、人としてふみおこなうべき道を外れた始皇帝には、エゴイスティックな暴君的エピソードがたくさんあります。たとえば、不老不死の神仙になる修行をしていたとき、始皇帝はしばらく人に会わず、しかも自分の居場所を誰にも教えないようにしていました。しかし、あるとき、ふとしたことで知られてしまいました。始皇帝は怒って、誰が知らせたのか調べましたが、わかりませんでした。そこで、その時そばにいた者を皆殺しにしたという話です。
 あるとき、隕石が落ちてきました。ある者が、その隕石に「始皇死んで地が分かれる」(始皇帝が死んで秦の土地はバラバラになってしまう)と書いた。これを知った始皇帝は犯人を探しますが、誰ひとり自分が書いたと名乗り出る者がいないので、隕石が落ちた近くに住んでいた住人を全員殺して、隕石を焼いて溶かしてしまったのです。
 また、金陵(現在の南京)に行ったとき、道教の方子が「このあたりには王気がある」と言いました。「王気」つまり王の気配がるということは、その地から王が出るということです。王は自分一人で充分である。それなのに王が出るというのは、自分にとって代わろうとする者がこの地から出るに違いない。それは、この地の気脈によるのだから、それを断ち切ってやろうと、なんと始皇帝は山ごと掘り崩したといいます。
 さらに、天下を取った始皇帝が全国各地を巡歴しますが、あるとき、洞庭湖のほとりの湘山で、大風が吹いて船が進めないということがありました。湘山には水神が祀られていました。始皇帝は、その水神が自分の行く手を妨げて大風を吹かせたと激怒して、湘山の樹木をすべて伐り倒させてしまいました。このような、神への礼に完全に反する行為もあったのです。
 以上のエピソードは、始皇帝の暴君ぶりを強調するために後世の人々が脚色した可能性もありますが、おそらくそれに近い事実はあったと私は思います。いずれも、神仙思想に関わるもので、不老不死を夢見て、自らの死を怖れるあまり残虐非道な行ないに走ったわけです。
 始皇帝は実務的には最高の能力を持ったリーダーでした。数多くの不可能とされたプロジェクトも実現させたし、現場にも非常に強かった。古今東西、始皇帝ほど領地を頻繁に巡歴した皇帝はいないとされています。そして、「法」による厳しい民衆管理の徹底。彼は一見、マネジメントの天才のように見えますが、私はそうは思いません。なぜなら、彼の強大な帝国はわずか14年しか続かなかった。人の心を決して信じず、自らの命と権力のみに固執する彼の恐怖政治は、しょせん心なきハートレス・マネジメントだったのです。
 そして、私たちの業界をはじめ、現代のビジネス社会には多くのミニ始皇帝が存在します。彼らは現場にも強く、計数感覚も鋭く、結果として商売は上手なので、一見、優秀な経営者に見られます。しかし、従業員の監視カメラを設置するなど例外なく性悪説の信奉者であり、恐怖によって社員を管理している彼らに人心を得ることはなく、その栄光は長続きしません。エゴに満ち、セクハラなどの醜聞が付いてくることも珍しくない。
 そして、最大の特徴は、彼らの生き方には「礼」のかけらもないことです。始皇帝の帝国ですら14年の命であったことを思えば、金儲けが少々うまいからといって調子に乗っていても、「礼」なきハートレス・マネジメントの実践者どもが経営する民間企業の命など、まるで広大な湖の水面に浮かんだ水泡のようなものだと思いませんか?『平家物語』ではありませんが、「盛者必衰の理」を知り、謙虚になることこそ「礼」の根本精神だと私は確信します。

アレクサンダーの人道主義

 それでは、心あるハートフル・マネジメントとは何か?その実践者は誰か?
 ハートフル・マネジメントあるいはでハートフル・リーダーシップを実践した人物として、私はマケドニアの大王であったアレクサンダーの名をあげたいと思います。彼こそは王の中の王であり、人類史上最高のリーダーであったと確信します。
 アレクサンダーは紀元前356年にギリシャの一角であるマケドニアに生まれました。そして20歳のとき王位を継ぎ、わずか12年の間に東はエジプト、西は中央アジアからインド北西部に至る広大な世界帝国を建国しました。そして彼の治世でもっとも特筆すべきはギリシャの宿敵ペルシャ帝国を滅ぼしたことでした。その意味では、西洋最大の英雄であるアレクサンダーも、東洋最大の英雄である始皇帝も、ともに「世界征服の野望に燃えた天才」と一般には思われています。
 しかし、始皇帝は後世の中国の皇帝たちの尊敬を集められず、漢帝国を建国した劉邦をはじめ、反面教師として意識される存在でした。それに対してアレクサンダーは、カエサル、ナポレオン、ケネディ、そして現代アメリカのカリスマ経営者など、ありとあらゆる西欧の政治や経営のリーダーたちの最高の目標とされてきました。みんな、アレクサンダーを教科書としてきたのです。
 世界のリーダーたちが何ゆえ、熱心にアレクサンダーにヒントを求め続けるのでしょうか?もちろん、重厚な人間観察に裏づけられた戦略的思考や、歴史から学ぶ成熟した実務文化という要素は大きいでしょう。しかし、アレクサンダーの真の魅力はそんなものではありません。
 まず、彼は部下に対して非常に思いやりの心を持っていました。部下たちを人間として対等に扱い、戦場でも彼らに激励の言葉をかけることを忘れませんでした。機会あるごとに兵士たちの前に立って、彼らに希望を与える演説を繰り返しました。
 あるとき、砂漠で飲み水がなく全員が渇ききっているとき、ある兵士がわずかな水を調達してきて、アレクサンダーのもとへ届けました。彼は「みんな渇いているのだ。私一人が飲むわけにはいかない」と言って、なんと水を砂漠の砂の上にこぼしたのです。そのさまを見た兵士たちは感動して、喉の渇きも忘れて活動したといいます。
 およそ1世紀後の始皇帝と違って、アレクサンダーには「人間尊重」の精神、すなわち「礼」の精神がありました。それは味方だけでなく、敵に対しても発揮されたのです。戦いでは始皇帝に劣らぬ冷酷さを見せたアレクサンダーですが、敵の兵士でもきちんと埋葬されるように常に計らいました。これは「敵も味方も死者となればみな平等である」という仏教の怨親平等思想にも通じるものです。
 ひょっとすると、アレクサンダーが自らの先祖であると信じていたアキレスを意識したのかもしれません。トロイ戦争で有名なスパルタの英雄アキレスは、敵であるヘクトールの埋葬に自らおもむいたことで知られています。アレクサンダーは、このアキレスが先祖であると母親から聞かされて育ち、心からアキレスを尊敬していたのです。
 しかし私は、師である大哲学者アリストテレスの影響ではないかと考えています。父王フィリッポスの要請でアリストテレスがアレクサンダーの家庭教師を務めたことはあまりにも有名ですが、その教育方法は現代のコーチングを連想させる質問主体のもので、実は孔子が弟子たちを教えたスタイルに酷似していると私は思っています。そのことを『ハートフル・マネジメント』にも書きましたが、孔子とアリストテレスの共通点は非常に多く、最も重視した教えはともに「中庸」ということでした。私は、アリストテレスが孔子の思想を何らかの方法で知っていたように思えてなりませんが、そうであるにせよ、また自分で発想したにせよ、「礼」の思想をアレクサンダーに教えたのではないでしょうか。「礼」こそ、未来の大皇帝にとって最重要なものであると偉大な哲学者は考えたに違いありません。
 アレクサンダーの人道主義的なスタイルは戦場の外でも同じで、勇敢であり寛大でした。彼はペルシャ王ダレイオスの妻と母と子どもの面倒を見て、捕虜の身である相手の弱みに決してつけこみませんでした。イッソスの戦いの2年後、ガウガメラの戦いでダレイオスを潰走させる直前、その妻が疲労と悲しみから亡くなると、アレクサンダーは遺族をすぐ見舞いました。そして、遺族とともに断食し、葬儀ではずっと遺体に付き添い、徹底的に礼を尽くしたのです。

アレクサンダーの大志

 きっとアレクサンダーには高い志があったのだと思います。それは「不老不死」という始皇帝の利己的な夢などとはレベルが違う利他的な願いです。おそらく、アレクサンダーは征服欲からではなく、世界を平和にするために、そして人類を平等にするために戦っていたのではないでしょうか。怨親平等に通じる死者への礼は、当社のテーマである「死は最大の平等である」そのものです。
 また、もう一つのテーマである「結婚は最高の平和である」についても、アレクサンダーは見事な実践者でした。アレクサンダーの名を聞いて西洋人が反射的に思い出すのは、いわゆる「集団結婚」です。
 スーサに戻った彼は、ギリシャとペルシャ、西と東の融合をめざし、部下の兵士一万人とともに、ペルシャ人を中心とした「東方的女性」と集団結婚式を挙げました。これは伝説などではなく、本当の話です。アレクサンダー自身にも少数民族の妻がすでにいましたが、新たにペルシャの王女を妻に迎えたのです。集団結婚式などというと、日本では隣国の某カルト宗教の名が浮かび、イメージは良くありませんが、アレクサンダーには「人種融合」という途方もない構想があったのです。考えてみれば、世界を一つにするためには、世界中の人種が結婚を繰り返して同一民族になってしまえばよいわけで、このあまりにもシンプルなアイデアは非常に普遍性があると言えます。
 私は、アレクサンダーが「結婚は最高の平和である」および「死は最大の平等である」を実践し、世界平和と人類平等を実現させるという大志を抱いていたのだと信じています。
 始皇帝は多文化を容認せず、有無を言わさぬ独裁的な勅令を下しました。それらは、一方では度量衡、法律、言語を体系化するのに役立ちましたが、もう一方では中国の人々に全体主義的で息の詰まるような体制順応主義の文化を押しつけることになりました。しかし、アレクサンダーは帝国内にある異なった文化と宗教をあくまで保護しようとしたのです。

 こころざし抱いて歩む人の道
    敵も弔うアレクサンダー   庸軒

 そして、始皇帝とアレクサンダー、東西を代表する人類の二大英雄の最大の違いは「死ぬ覚悟」にありました。
  『史記』に「死を言うを悪(にく)む」とありますが、始皇帝は「死ぬ」と言うのを非常に嫌いました。そして、「群臣あえて死の事を言うなし」、家来たちも「死ぬ」というようなことは口にしません。それは禁句になっていたのですが、いくら禁句にしても死は迫ってきます。死から逃げ回った生涯でしたが、とうとう河北省の沙丘というところで死の恐怖にうちまみれながら始皇帝は死んだのです。
 一方、アレクサンダーには常に「死ぬ覚悟」がありました。だからこそ、いつも戦いでは最前線に出て行ったのです。さらに、正義のために自ら毒杯を飲んで死んだソクラテスに代表されるように、古代ギリシャの哲学者たちは、不死を望むことの愚かさを知っており、この願望を実現する難しさについて常に考えをめぐらせていました。このような「死」の哲学が、ソクラテスからプラトン、アリストテレスを経て、アリストテレスの弟子であったアレクサンダーに受け継がれた可能性は大いにあると言えます。
 ギリシャとペルシャの両民族の合一を祈る大祝宴を開催してバビロンに帰ったアレクサンダーは、アラビア遠征の準備中に熱病に倒れました。彼の天幕の外で知らせを待っていた兵士たちは、アレクサンダーの健康状態が急速に悪化していることに気づくと、中に入って別れの挨拶をさせてほしいと懇願しました。兵士らがベッドの脇を列をなして通りすぎると、すでに衰弱して口もきけないありさまでしたが、アレクサンダーは会釈を返し、うなずいたり、手を上げたり、まばたきしたりして一人ひとりに幸運を祈ったのです。
 側近たちは王位継承の計画が立てられていないことを案じて、アレクサンダーの周囲に集まりました。誰に王位を譲りたいかと尋ねると、彼はかすかに「最も強い者に」と答え、それから息を引き取りました。享年32歳でした。
 他人を思いやり、死者への礼を忘れず、高い志を抱いて、死を怖れなかったアレクサンダーこそは、ハートフル・マネジメントを実践した正真正銘のハートフル・リーダーでした。私たちが日々お手伝いさせていただいている結婚式や葬儀の一件一件が、アレクサンダーがかつて目指した「世界平和」そして「人類平等」という崇高な理念に直結していることをぜひ覚えておいてください。
 こんなに価値のある仕事は他にありません。

 不安なく心ゆたかに生きるには
    老いる覚悟と死ぬ覚悟持て   庸軒