2006
03
株式会社サンレー

 代表取締役社長

  佐久間 庸和

「加速するインターネット社会

 だからこそ冠婚葬祭が必要だ!」

ライブドア事件とホリエモン

 今月の社長訓示はライブドア事件にふれ、「すべてはインターネットから始まった」と述べました。今回の犯罪の本質には、「どこでもドア」と見立てられ、ライブドアの本業でもあったインターネットの存在が大きく関わっていると思います。
 1972年に福岡県八女市で生まれたホリエモンは、小学校の低学年の頃、パソコンと出会ったそうです。従兄弟が持っていたシャープのMZ80Kのパソコンでゲームを楽しみました。これは、日本ではじめてといっていいパソコンです。
 ホリエモンはその頃、少年ハッカー団がアメリカの国防総省に侵入して悪さをするシーンをテレビ番組で見て、「パソコンはすごい!ネットワークでつながったら、何でもできる」と心をふるわせたそうです。
 長じて東京大学文科Ⅲ類に入学し、アルバイト情報誌で探したソフト開発会社で働くことになりました。ここでは、さまざまな仕事をこなしたようです。ホリエモンも初めてメールアドレスを取得しました。そして、インターネットに接続し、文字列だけではなく、絵や絵文字を使ったホームページを見ることができました。彼は「これは、すごい!」と直感的に思ったそうです。
 調べてみると、インターネットは非常によくできた仕組みです。いずれ情報通信革命が起こる予感がしました。ただし、一番カギとなるのは、誰もがその便利さに気づくことです。「みんなが使うようになれば、絶対に情報通信革命が起きる」と、ホリエモンは心をはずませました。
 最初は所属していたソフト開発会社内にインターネット事業部を作りましたが、後に自分で起業することを決意、1996年に資本金600万円で有限会社オン・ザ・エッヂを設立しました。「最先端」という意味を持つ一方、「崖っぷち」という意味も持つ象徴的な社名です。ホリエモンは23歳でした。
 さて、東大ではベンチャー経営者に珍しく宗教学科に属した彼は、卒論のテーマを「ネットと宗教の関係」に決めていたそうです。ホリエモンは作家の大下英治氏の取材に対して、「新興宗教は、ホームページをつくり、新たな布教活動の拠点としてネットを利用しはじめていた。オウム真理教のホームページも見たことがありましたよ」と答えています。
 彼は、会社の仕事が忙しくなり、ついに卒論を書くことができませんでした。しかし、大下氏は、ホリエモンの原点がパソコンとこの卒論にある、と見ています。彼は、やがて自らがホリエモン教の教祖的存在となり、若者たちから熱狂的支持を得ていきます。まさに、幻に終わった卒論を実人生で描いていったようなものです。

インターネットとカルト宗教

 インターネットとカルト宗教はまさに絶妙の取り合わせです。というか両者とも情報のみのバーチャルな世界で、リアルな世界とつながっていないという共通点があります。いま、私たちの住む社会はIT化が進み、インターネットで世界とつながり、瞬時にして世界中の情報が入ってきます。宗教についてもそうです。「宗教」問題を検索すると、ものすごい量の情報が出てきます。しかし、それは情報だけであって、心に響き、魂を揺さぶるようなものではありません。
 もう一つ、情報だけのバーチャルな世界が存在します。それは、株です。特に、インターネットで売買する株の世界です。いつからでしょうか、サラリーマンや主婦が株に手を出し始め、新聞の株式欄を見て一喜一憂する姿が目立ちました。パソコンとモバイルの普及でこれに一気に火がつき、今では素人の「ディトレーダー」が巷(ちまた)にあふれています。ライブドアの素人だましの犯罪も、実はそうした一蓮托生の「共犯者」がいてこそ成り立ったのでした。

虚しい世界観

 私は基本的に、ホリエモンが「人の心はお金で買える」と広言しているのを知っておきながら、分割されまくったライブドア株を買い、事件が明るみに出た後で「金儲け主義の汚い奴」などと手の平を返したようにホリエモンを批判する人間を認めません。また、そういう者とビジネスをする気もまったくありません。拝金主義者なら拝金主義者らしく肚を据えるべきです。その意味ではホリエモン本人の方がよっぽど筋が通っている。事件後に豹変し、取って付けたように企業倫理を語るライブドアの株主ほど醜悪なものはないと思います。正直に「金を儲け損なって悔しい!」と告白すればよろしい。
 インターネットを駆使したカルト宗教にせよ、ネット証券にせよ、情報だけの世界は実に虚しいものです。実に虚しいのですが、その虚しさになかなか気がつかない。虚しさに気づく頃には人生の終わりが近づいています。
 もちろん、ITのすべてが悪いわけではありません。ITは、かのピーター・ドラッカーも言っているように、私たちの社会を根底から大きく変えました。ドラッカーは、「知識化」とともに早くから社会の「情報化」を唱え、後のIT革命を予言していました。当然ながら、そこには文明史的展望があります。

産業革命とIT革命

 ドラッカーは、IT革命を産業革命と対比させています。蒸気機関が産業革命を起こし、産業、経済、社会を変えました。しかし、蒸気機関は何も新しいものは生みませんでした。それまで生産していたものを大量に生産するようになっただけです。もちろん、これだけでも革命と呼ぶに充分の偉業です。
 産業革命は、鉄道を生み出したとき、文字通り世界を一変させました。距離感を縮め、人類史上初めて人類に移動の自由を与え、全国マーケットなるものを生みました。IT革命についても同様のことが言えます。コンピュータの発展によって、データを高速処理できるようになりました。それまで半年もかかっていた複雑な計算や設計が、瞬時に行なわれるようになりました。  IT革命は、産業革命の鉄道に相当するものを生み出しました。ドラッカーは、それがeコマースだと言います。eコマースは距離そのものをなくします。その影響はグーテンベルグの印刷革命や産業革命と同様、それ自身とはまったく関係のない領域を変えます。つまり世のなか全体を変えるのです。
 2006年の現在、デジタルで記述された情報は、文字や音声、画像、動画などあらゆる形態をとりながら、パソコンやケータイといった機種を問わず、場所を選ばず、時を選ばず、取得されることを要求してきます。スイッチを切っていなければ、電波が入らない場所にいるのでなければ、人は否応なく情報の中に取り込まれていきます。またビジネスにおいてはそういった情報を、いかにスピーディに、効率よく、要領よく処理するかが重要となり、数値化された成果の多さや、データ元が常に明示されていることが信用の根拠とされるようになりました。
 その結果、眼前に広がる高度情報社会は、情報を操作する姿ではなく、情報に右往左往させられる姿とも映ります。そして、そんな状況は、果たして私たちにとってメリットなのかデメリットなのかわからない、混迷した地点へと誘導していると言えるでしょう。
 たしかにパソコンやケータイに代表されるITは、もはや日単位どころか秒単位で発展しており、その速度と容量と利便性は、ますます先鋭化しています。私は、それらすべてが悪いとは思いません。しかし、今まさに世界を覆いつつあるこの情報と技術の奔流の中に、違和感を覚えている人は多いはずです。

IT社会の負の側面

 IT社会の負の側面も見えてきています。「出会い系」を中心とする迷惑メールの被害に遭っていない人はいないでしょう。こと金銭的なものにかぎって言えば、昨今では悪質で手の込んだ詐欺も忍び込んでいます。実在の銀行名などを騙(かた)って、ユーザーにカード番号や銀行口座、暗証番号などを入力するよう誘導する、「フィッシング」と呼ばれる詐欺メールも横行しています。
 IT社会と言えば、まずメールが思い浮かびます。人間が社会の中で生きていくには、すべからく他者との意思の疎通が求められます。「私はこう思う」「君はこうしたほうがいい」「それがほしい」「あれはいらない」...いかに世の中の仕組みが自動化したとしても、人と人とのコミュニケーションはなくなりません。だからこそメールは、数あるネット機能の中でも最も利用されるのです。
 しかし、そのメールがまた新たな問題を生む。中高生たちの携帯メールにおいても、すぐに返信しないと嫌われて仲間はずれになってしまうという新たな問題が起こっています。すぐに相手に伝わるという携帯メールの利点が、いつしか相手に対して即座の返信を求めるという強制力に変わっていく。いつどこから変わってしまうのか、その境界は曖昧(あいまい)です。企業社会では同報メールとその返信が「社会的」な拘束力を持つのと同様に、子どもたちの社会では携帯メールが「心理的」な拘束力を持っているのです。利便性を追求していった結果、いつの間にか心に負担をかけるツールに変わりつつあるという風景も見えてきます。
  「ブログ」という日記風の簡易ホームページにおいても、その問題は同様です。某新聞の身の上相談欄にファストフード店でバイトする女子高生の相談が掲載されていました。それによると、バイトの先輩がブログを始めた。それはいいのだが、「昨日のブログどうだった?」といつも感想を求めてくる。第一、読んでも「何を食べた」とか「何のテレビ番組を見た」とかで、少しも面白くない。にもかかわらず、感想の書き込みをするように強制される。うっとうしくて仕方がないし、従わないと人間関係がこじれるので、それも面倒だ、といった内容でした。
 まったく、この女子高生に同情してしまいますね。そもそもブログとは、「セレブ」と称される有名人のものでした。彼らが私生活について書くからこそ、覗き見趣味的なものもあって、ブログは流行したのです。それなのに、無名の人間が頼まれもしないのに面白くもない日常生活を勝手にさらけ出し、そのうえ、他人に感想や書き込みまで要求するとは不遜の極みと言えるでしょう。まさにカラオケ以上のマスターベーション行為です。
 このマスターベーション行為であるブログをビジネスとして強力に推し進めていったのが、何を隠そうライブドアでした。ライブドアのブログ・プロモーションにより日本全国に「目立ちたがり」「表現したがり」の人々が一斉に私的な日記を公開し始めました。まったく、おぞましいことです。
 ライブドアの罪は重く、かつて「自分が一番かわいい」なる『フロムA』の広告コピーで日本にミーイズム(利己主義)を定着させたリクルートを連想させます。奇しくも両社の創業者はプリズンドアを開きましたが、その罪は法律上の罪状より遥かに重い「利己主義流布の罪」だと言えるでしょう。

コミュニケーションの闇

 そしてIT社会の最大の闇は、やはりコミュニケーションの本質に関わっています。ネット上や携帯電話の画面を通してのコミュニケーションは、人間の五感能力を確実に衰えさせます。パソコンやケータイの画面を通してのコミュニケーションでは、相手の声を聞き、表情を見ることができず、相手の気持ちを正確に読み取る訓練ができないからです。
 人間の気持ちや考えは、言葉だけでは充分に伝わりません。同じ言葉でも声のトーンや表情によって、ニュアンスは微妙に違ってくるからです。IT機器に依存し、これだけをコミュニケーションの手段として利用するのでは、相手の気持ちや精神状態を読み取ることはできないのです。ですから、相手の気持ちを傷つけることなどお構いなしに、一方的な発言になってしまいます。向き合って充分な会話をすることがないのです。そして、このことが若い世代にかつてない深刻な問題を生み出していると私は思います。
 その象徴的な事件が、2004年に長崎県佐世保市で起こりました。命を奪ったのも奪われたのも小学六年生の女子だったという同級生殺害事件です。この事件は、当時同じ小六の娘がいた私の心に大きな衝撃を与えました。11歳と12歳。これから青春を迎える早春というべき年齢で、一人はいかようにも花開いただろう人生の蕾(つぼみ)を理不尽にも散らされ、一人は重い罪を背負って、残りの長い季節を生きなければならない。
 なぜ、こんな悲劇が起きたのか。さまざまな意見が出ていますが、子どもの「死」についての理解があまりにもなさすぎることが原因の一つだと思います。リセットボタンを押せばキャラクターが簡単に生き返るゲームと違って、人間や動物を刃物で刺せば大量に出血し、あっけなく死ぬのです。
 核家族化、病院中心の高度医療の発達、食材流通システムの変化などで「死」の場面から遠ざけられた子どもは、この当たり前のことを学ぶ機会に乏しいと言えます。「いっそ、子どもたちに日常的に葬儀の見学をさせ、生命の尊さを学ばせたらどうか」と、事件直後に冠婚葬祭業界に提言したこともありました。
 この事件もIT社会の中で発生しました。二人の少女はパソコンのチャット仲間だったのです。バーチャルなコミュニケーションの中で幼い心のすれ違いが生まれ、それが殺人にまでつながったわけです。

本当の情報が登場するのはこれから

 私たちが業としている冠婚葬祭はバーチャルを超えたリアルそのものの営みです。「冠婚葬祭とはひと言でいって何ですか?」と尋ねられたとき、私はいつも「人が集まることです」と答えています。結婚式にしろ、葬儀にしろ、冠婚葬祭とは生身の人間が実際に集まってきて、喜びや悲しみの感情を持ち、祝意や弔意を示すことに他なりません。くだんの事件では、被害者の父親は「娘の告別式はしない」と言い、初面会した加害者の父親は「毎晩手を合わせるんだよ」と言ったそうです。
 ITとは、インフォメーション・テクノロジーの略です。ITで重要なのは、I(情報)であって、T(技術)ではありません。ドラッカーは、IT革命の本当の主役はまだ現われていないと述べました。その情報にしても、技術、つまりコンピュータから出てくるものは、過去のもの、組織の内部についてのものにすぎないといいます。
 本当の主役、本当の情報が登場するのはこれからなのです。そして、真の主役こそ、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったポジティブな心の働きだと私は信じています。情報の「情」とは、心の動きに他ならないからです。心の社会とは、新しい情報社会なのです。
 そもそもITが進歩すれば、人が集まらなくなるというのは、あまりにも単純な発想です。人間にはそもそも群れたがる習性があり、肌のぬくもりのあるヒューマン・コミュニケーションを求めるものです。
 ITの原点とも言える電話が発明された時のエピソードがすべてを雄弁に物語っています。かのA・G・ベルは1876年に電話を発明しましたが、その偉大なる第一声はあまりにも象徴的です。ベルは階下にいる助手に「上に来てくれ」と言いました。現在でも、携帯電話の最も多い使われ方は、人と人とが会う約束のためなのです。
 ITだけでは人類の心は悲鳴をあげて狂ってしまいます。ITの進歩とともに、人が会う機会がたくさんある社会でなければなりません。そして、多くの人が会う機会の最たるものこそ冠婚葬祭です。私は、これからも結婚式や葬儀に限らず、七五三であれ、成人式であれ、長寿祝いや法事であれ、ありとあらゆる人が集まる「理由」や「目的」を掘り起こしていきたいと思います。
 つまりはハイテクとハイタッチ、インターネットと冠婚葬祭は相互補完関係にあるのです!これからの社会がハートレス・ソサエティになるか、ハートフル・ソサエティになるかは、まさに私たち儀式人にかかっています。
 最後に、私の大学時代の恩師である孫田良平先生からいただいた年賀状の一文を、ぜひみなさんに紹介したいと思います。この一文に私は本当に感動し、大いに励まされました。年賀状にはこう書かれていました。
 「この人心が荒れた世の中で、直接の人的サービスを提供できる仕事は最高です!」

 進化せしインターネット補完して
       人類救ふものは儀式よ   庸軒