2005
04
株式会社サンレー

 代表取締役社長

  佐久間 庸和

「恋愛も結婚もローマに通ず!

 ROMAN ROMANとは何か?」

古代ローマ人と現代日本人

 新世紀の結婚式場「ヴィラ・ルーチェ」がたいへんな話題を呼んでいます。テレビや新聞など、ほとんど日替わりでマスコミに報道されており、予約もどんどん入ってきています。
 ポスト・ハウスウエディングの未来像を最初に提示する者は誰かとブライダル業界では全国的に注目されていましたが、どうやらわがサンレーがその栄光に浴することになりそうです。
 塩野七生さんの大著『ローマ人の物語』を読んで、私はまず、古代ローマ人と現代の日本人の驚くほどの共通性に驚きました。ともに、食事では肉よりも魚を好み、温泉を好み、室内の内装は簡素を好みます。
 まるで、古代ローマ人は現代ヨーロッパ人よりも現代日本人の祖先のようですが、さらに、火葬が一般的である点も似ているし、遺骨が故国に葬られるのを強く望む点でも似ています。エジプトで殺されたポンペイウスの遺骨も、わざわざイタリアにまでもって帰って葬りました。アフリカで自殺した小カトーの遺灰も故国に帰ったし、ギリシアで自殺したブルータスの遺骨も、故国の母親に送られています。
 生前に自分の墓所にいっさい関心をもたなかったカエサルのような人物は、ローマ人の間では例外なのであって、普通のローマ人ならば、葬られる場所は非常に重要な問題だったのです。

カエサルという男

 そのユリウス・カエサルですが、彼は古代の英雄の中でもきわめて特異な存在でした。それは彼が帝王ではなく大衆に人気のある政治家だったからです。「ローマは一日にしてならず」や「すべての道はローマに通ず」など、ローマ関連の名言は少なくありませんが、カエサル自身も多くの名言を残しています。いわく、ルビコン河を渡る際の「賽は投げられた」とか、元老院に戦闘の戦果を報告する最初の言葉である「来た、見た、勝った」とか、暗殺時の「ブルータス、お前もか」とか、カエサルにはコピーライターの才能があったとしか思えません。ドラッカーが「政治家、経営者を問わず、リーダーとは、言葉によって人々を操る者である」と述べていますが、その代表格こそカエサルなのです。
 カエサルはまた、良い意味での欲張りでした。一つのことを一つの目的でやる男ではなかったのです。つまり、私益は他益、ひいては公益、と密接に結びつくかたちでやるのが彼の特色です。なぜなら、私益の追求もその実現も、他益ないし公益を利してこそ十全なる実現も可能になる、とする考えに立つからです。
 この考えは、別にカエサルが天才であったから考えつき実行できたことではなく、私たち凡人の多くも、意識しなくても日々実行していることです。自分自身のやるべきことを十全にやることで、私益→他益→公益となります。なぜなら、人間の本性にとって、このほうがよほど自然な道筋であるからです。ルネサンス時代の政治思想家マキアヴエッリも、この考え方の妥当性を強く主張した一人でした。つまり、公人であろうと、その人の利益の追求は認められるべきである、と。なぜなら、私益の追求を公認することこそが、公益の実現にも、より健全でより恒久的な基盤を提供することになるのだ、として。

借金王カエサル

 そしてカエサルは、ローマの借金王でした。政界キャリアをはじめる以前に莫大な借金をしているので、選挙運動費でもなければ、人気取りを狙った、剣闘士試合の主催費でも街道の修理費でもありません。その消費先は、次の三つに大別できます。
 第一は、自分自身のため。まずは、書籍代です。カエサルの読書量は、当時の知識人ナンバーワンと衆目一致していたキケロでも認めるところでした。当時の書物は、高価なパピルス紙に筆写した巻物であり、当然ながら高くつきました。また、読書の趣味は、経済的に余裕ができたからはじめる、というものではありません。
 そのうえ、若きカエサルは、お洒落の面でも有名で、長衣や短衣の布地や色、はてはベルトの締め金のデザインにまでこだわったのです。
 カエサルの大らかな借金の第二の理由は、史家たちによれば、彼の友人づきあいの大らかさにあったとあります。友人たちに加え、彼のような名門ならば必ずいた後援会的な「クリエンテス」たちとの交際費のことです。
 そして、莫大な額になった借金の第三の原因は、愛人たちへのプレゼント代でした。この面でも彼の大らかさは有名で、自ら選んだ高価な品を女たちに贈るので評判でした。名家出身でも金持ちではなく、輝かしいキャリアなど薬にしたくもなかったのが当時のカエサルですが、また、女性的と思われるほど整った顔立ちを美男とした古代では特別な美男子でもありませんでしたが、すらりと背は高く均整のとれた肉体と、生き生きした黒い眼と、立居振舞いの争えない品位は、彼を、同年輩の若者たちに混じっていてもひときわ目立つ存在にしたでしょう。それに加えて、アイロニーとユーモアをふくんでの彼の会話も愉しいものでした。高価な物など贈らなくても、女たちにモテたでしょう。しかし、贈物をもらえば、女性は嬉しく思います。カエサルは、モテるために贈物をしたのではなく、喜んでもらいたいがために贈ったのです。塩野さんはそのあたりを「女とは、モテたいがために贈物をする男と、喜んでもらいたい一念で贈物をする男のちがいを、敏感に察するものである」と書いておられます。

史上最高にモテた男

 塩野さんはまた、カエサルについて書いた古今の史家や研究者や作家がみな心中に抱いていたひとつの疑問に対しても大胆に解明してゆきます。
 その疑問とはつまり、カエサルはなぜあれほど女にモテ、しかもその女たちの誰一人からも恨まれなかったのか、ということです。女にモテたということだけなら、史家も研究者も、羨望までは感じません。モテるだけならば、剣闘士だって俳優だってモテたのですから。「立派な男までが羨望を感ずるのは、それでいてカエサルが、女たちの誰一人からも恨まれなかった、という一事ではないか。モテることも男の理想だが、モテた女から恨みを買わないという一事にいたっては、それこそすべての男が心中秘かにいだいている、願望ではないかと思う」と、塩野さんは言います。
 なぜなら、一人前の男なら、自分からは醜聞は求めない。だから醜聞は、女が怒ったときに生まれるわけです。
 では、なぜ女は怒るのか。怒るのは、傷ついたからです。それならどういう場合だと、女は傷つくのか。女が醜聞もいとわないくらいに怒るのは、貢いだ男が無情に縁を切ったあげく寄りつきもしなくなったからです。だが、カエサルは違いました。
 まず第一に、愛する女を豪華な贈物攻めにしたのはカエサルの方です。借金が増えるから贈物などしなくてもよいなどと言うのは妻であって、それ以外の女ならば例外なく愛しいと感じます。そして、誇らしいと感じます。カエサルが20年もの間公然の愛人であったセルヴィーリアに贈った真珠は、実に豪邸が二つ買える値段だったといいます。
 第二に、カエサルは愛人の存在を誰にも隠しませんでした。彼の愛人は少なくありませんでしたが、みな公然の秘密でした。いや、女の夫まで知っていたのですから、秘密でさえもありません。これでは、スキャンダルにもなりません。公然ならば、女は愛人であっても不満に思わないからです。
 そして第三の理由は、史実によるかぎり、どうやらカエサルは、次々とモノにした女たちの誰一人とも、決定的には切らなかったのではないかと塩野さんは推察しています。
 つまり、関係を精算しなかったのではないかと。セルヴィーリアには、愛人関係が切れた後でもカエサルは、彼女の願いならば何でもかなうよう努めました。彼女の息子のブルータスがポンペイウス側に立って自分に剣を向けた際も、戦闘終了後のブルータスの安否を心配し、生きていたとわかるやただちに母親に伝えさせています。また、公然の愛人がクレオパトラになった後でも、セルヴィーリアの生活に支障がないよう、国有地を安く払い下げるなどという、公人ならばやってはいけないことまでやっているのです。
 かくして、イタリアの某作家によれば、「女にモテただけでなく、その女たちから一度も恨みをもたれなかったという希有な才能の持主」であったカエサルの、以上が塩野流の推察です。そして、女と大衆は、この点ではまったく同じだといいます。人間の心理をどう洞察するかに、性別も数も関係ないからです。
 カエサルは有能な軍人でした。ローマ軍を率いて常に連戦連勝、大衆は常に戦争に勝つ者に拍手します。ナポレオンしかり、ジンギスカンしかり、しかしカエサルはただ戦争に強いだけでなく、政治家としても有能でした。戦勝の功で、執政官に抜擢されると、一般市民の利益を擁護する姿勢を常に取り続けました。いってみれば「源義経」(戦争の天才)プラス「遠山の金さん」(庶民の味方)です。  これに対して保守派の元老院議員たちは、ポンペイウスを中心としてカエサルの改革を常に妨害し続けました。ついに堪忍袋の緒を切ったカエサルは、自分に忠実な兵士たちを引き連れクーデターを起こし、ルビコン河を渡ったのです。クーデターは成功し、カエサルはすべての権力を掌握しますが、彼の悲劇は、周囲から「独裁者」になるのではないかと、恐れられたことでした。そして、紀元前44月3月15日、元老院を訪れたカエサルは、ブルータスらの凶刃に倒れたのです。
 カエサルの死後、彼の遺志は盟友アントニウスと養子のオクタヴィアヌスの二人に引き継がれました。二人は、フィリッピの会戦の勝利によって、カエサル暗殺への復讐を果たすと同時に、共和政主義者の壊滅に成功します。そして、フィリッピでの会戦終了後、二人は東と西に分かれ、ローマ世界の東方はアントニウスが担当し、西方はオクタヴィアヌスの分担地域と決まります。当時、剣闘士なみの頑強な肉体を持つアントニウスは男盛りの40歳、まだ少年の面影さえ漂うほっそりした身体つきのオクタヴィアヌスは21歳でした。
 二人の間ではカエサルの後継者を最終的に決める闘争が繰り広げられます。ローマはもはや共和制で維持するには大きくなりすぎていました。激しい抗争の末、オクタヴィアヌスが勝利し、彼はローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスとなったのです。

オクタヴィアヌスの恋
 カエサルは後世に「恋愛の神様」にされるほど恋多き男でしたが、その養子オクタヴィアヌスは24歳の時に生まれてはじめての恋をしました。彼が恋した女の名はリヴィア。
 5歳年下ですが、すでにクラウデイウス・ネロと結婚している人妻で、ティベリウスという名の3歳の子の母親でもありました。加えて、妊娠中の身でもありました。
 イギリスの文豪シェークスピアは『ジュリアス・シーザー』や『アントニーとクレオパトラ』などのローマ劇の名作を残しましたが、彼の描くオクタヴィアヌスは冷静で醒めた男でしかありません。しかし、実際のオクタヴィアヌスはそれだけではありませんでした。カエサルの死の直後から遺志を継ぐ想いで一貫してきましたし、持続する意志ないし情熱の持主でもあります。その彼にとっては、妊娠中の人妻であろうと、恋の障害にはならなかったのでした。
 それに、オクタヴィアヌスのほうは独身でした。政略結婚の相手だったスクリボニアと離婚していたからです。24歳の若者は、愛する女の夫に直談判しました。ローマ名門の貴族でもあるクラウデイウス・ネロは、オクタヴィアヌスに妻をゆずります。前38年の1月、二人は結婚します。花嫁の介添は前夫が務めたという、変わった結婚式でした。
 24歳の夫と19歳の妻は、ローマの為政者間の結婚には珍しく、生涯添い遂げることになります。そして、アウグストゥスと尊称されて初代の皇帝となるオクタヴィアヌスの後を継ぎ、ローマ帝国二代目の皇帝になるのは、リヴィアの連れ子のティベリウスなのでした。政治への配慮の必要もなく、望んだ人を妻に迎えることができたという一事だけでも、オクタヴィアヌスの立場は確実に強くなり、その後、政敵アントニウスを滅ぼすに至ったのです。
 古代ローマは日本と同じく、人間を神格化する習慣がありました。菅原道真や明治天皇が神になったごとく、カエサルも神になりました。恋愛の神様です。自分の意志を貫いて思い通りの結婚を果たしたアウグストゥスは結婚の神様だと言えます。その結婚の神としてのアウグストゥスは少子化や不倫や離婚といった、現代日本にも通じるさまざまな問題を解決していったのです。

結婚の神様の大作戦

 紀元前一世紀末のローマでは、少子傾向が顕著になっていました。前二世紀までのローマの指導者階級では、グラックス兄弟の母コルネリアのように、十人もの子を産み育てるのは珍しくありませんでした。それが、カエサルの時代には二、三人が普通になります。アウグストゥスの時代になると、結婚さえしない人々が増えたのです。
 当時のローマでは、独身を通したとて、不都合はまったくありませんでした。家事は奴隷たちがしてくれたからです。女性のほうも、一度も結婚しないのでは社会上の立場がないため結婚はするにしても、夫を亡くしたり離婚したりで独身に戻っても、それによる不都合はほとんどありませんでした。家父長権の強いローマ社会では、結婚後の女を規制する権利は、夫よりも父にあることが多く、父親は娘に甘い。アテネと違ってローマでは、既婚女性ならば宴席で男たちと同席するのも認められていました。
 この独身と少子傾向は、当然のことながら、より恵まれた階層により顕著にあらわれます。アウグストゥスは、もっぱらこの階層を対象にして「倫理対策」(クーラ・モールム)に着手しました。前18年、アウグストゥスは二つの法案を提出しました。元老院では相当な反対を浴びましたが、45歳の最高権力者は一歩も引かずに政策化に成功しました。「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」と「ユリウス正式婚姻法」です。
 これまでのローマでは、姦通などは私的な問題で、国家の関与すべきことではないとされてきました。妻に姦通された夫は、離婚すればよかったし、よほど腹にすえかねれば殺すことで解決できたのです。また、家父長権を行使できた父親も、娘を離婚させたり、家名の汚れということで殺すこともできました。だが実際は、離婚で終わるのが普通で、妻の実家の力が強い場合などは、離婚にも行かずに現状維持という場合も少なくありませんでした。
 ところが、「ユリウス姦通罪法」の成立によって、姦通は公的な犯罪になったのです。そして、夫や父にかぎらず市民の誰でも、告訴することが可能になりました。この法は、姦通した妻やその愛人が裁かれ罪に問われるにとどまらず、姦通を知りながらその事実を隠したり、または知った後も何も手を打たなかった夫も実父も、「売春幇助罪」に問われると規定していたのです。そして、「婚外交渉罪法」によって、女奴隷や娼婦を除いた他の女性との正式婚姻関係以外のあらゆる性的関係も、公的な犯罪と見なされると決まったのです。
 何やらアウグストゥスのやり方は、まず水を断ち、次いで城攻めにかかる兵法を思わせますが、第二の法である「ユリウス正式婚姻法」は、城攻めと言ってよいでしょう。この法の成立によって、国家ローマの「脳」と「心臓」と「神経」となる人々は、男は25歳から60歳、女は20歳から50歳の圏内にあるかぎり、結婚していなければ独身であることの不利を耐えねばならない、と決まりました。未亡人の場合でも、子がなければ、一年以内に再婚しないと独身並みとされます。独身者や子を持たない者は、社会面や税制面での不利に加え、キャリアの面でも不利になりました。この法には、公生活上でも子を持つ者の優遇が明記されていたからです。当然ながら、ローマにおける離婚は格段に減少しました。
 そして、不倫問題。健全な「国家」(レス・プブリカは健全な「家族」(ファミリア)の保護と育成なしには成り立たないと考えるアウグストゥスは、不倫に対しては厳罰で臨んでいます。「ユリウス姦通罪・婚外渉外罪法」では、不倫関係を結んだのが人妻であれば、資産の三分の一を没収されたうえ終身追放と決まりました。自由民として生まれたローマ市民との再婚も不可と決まります。
 では、夫の方が不倫関係を結んだ場合はどうなるのか。実際上は不問であったようです。とはいえ、相手が人妻であれば、愛人を不倫罪に追い込んだという、恥と罪の意識から開放されることはなかったでしょう。また、人間性の現実から見ても、夫の浮気よりは妻の浮気の方が、家庭の崩壊に結びつきやすいのも事実でした。
 しかし、夫側の不倫とて野放しにされたのではありません。ローマの娼婦には、登録の義務がありました。毎年改訂される娼婦全員の名簿が存在し、不倫相手の女性がこの名簿に記載されていない場合は、つまり娼婦以外の女ならば、なんと「強姦罪」に問われることになったのです。これでは、浮気も生命がけ!45歳のアウグストゥスが自身の女関係を改めたか否かはさておき、不倫の達人でのあったカエサルは、天上界で大笑いしたに違いありません。

健全な家族を求めて

 アウグストゥスの成立させた二つの法律のかいあって、ローマの離婚率は減少し、少子化には歯止めがかかりました。それにしても、現実世界に対する法律の影響力の大きさには驚かされます。古代の西欧社会において人間の行動原理の正し手を、ユダヤ人は宗教に、ギリシア人は哲学に、そしてローマ人は法律に求めたのでした。
 アウグストゥスは何よりも「健全な家族」というものに価値を置いた人でした。「ユリウス二法」の成立直後の話です。一人の老いたローマ市民が、他ならぬアウグストゥスの招きで首都ローマを訪れました。招かれたのは、彼一人ではありません。8人の子と35人の孫と18人のひ孫とともに招待されたのです。皇帝はこの名もない一市民を、まるで凱旋将軍でもあるかのように歓迎しました。
 子に孫にひ孫の一群を従えた老市民は、カピトリーノの丘に建つローマの主神ユピテルの神殿に、アウグストゥスの先導で参拝します。皇帝は、彼こそがローマ市民が見本とすべき人であると賞賛したのです。
 それにしても、現代の日本人にとっても他人事でない少子対策のような問題は、税からの控除とか家族手当の増額程度では解決不可能なのだと感心させられます。それに、税制上でも出世のうえでも不利だからという理由で産んだとしても、子どもというものは、生まれてみれば可愛いのです。結婚も、しなくては不利となれば、選りどり見どりという、人間性に対する不遜な態度も改める気になるかもしれません。
 キリスト教は、神に誓ったからという理由で離婚を禁じていますが、これも進歩主義者の言うほどは悪法とは思えません。神に反するとなれば、離婚を決行する前に十倍は熟考するはずです。考えれば、我慢してよいところなど必ず見つかるはずですから。
 離婚一つを取り上げただけでも、神の前で誓った関係ゆえ解消など論外、という考え方のキリスト教に対して、解消までは禁じないがそれを決行した場合の不利は甘受しなければならない、というローマ人の考え方が反映されていて興味深いです。「法の精神」とは、このあたりの「平衡感覚」をこそ指すのではないでしょうか。そして、アウグストゥスがこの後に着手する政策も、すべて彼のバランス感覚の冴えを示すものになるのでした。

クレオパトラという女

 カエサル、アントニウス、アウグストゥスといえば、ローマ史を彩るビッグスリーともいえる存在ですが、この三人の男と浅からぬ縁を持った人物こそ、人類史上最高に有名な女であるクレオパトラでした。
 まずカエサルですが、彼は内紛状態にあったエジプトのアレクサンドリアに乗り込み、弟王の側に立つという大方の見方に反して、姉である女王クレオパトラに有利な裁定を下しました。
 これこそ、古今東西あまたの憶測を巻き起こし、プルタルコスをはじめとする史家たちの書いたエピソードに、事の発端があったと人々が信じ込んだ問題です。つまり、裁定前夜の王宮に、敷物だかに巻き込ませたクレオパトラが、それを運びこませることで侵入に成功し、そこで初めて会ったカエサルを魅力の虜にした結果、彼女に有利な裁定が下されたのである、と。パスカルなどは、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていただろう、とまで言いました。
 恋多き男・カエサルと絶世の美女・クレオパトラは愛人関係になりました。しかしカエサルには、たとえ愛人関係に進まなかったとしても、クレオパトラの軍事上の劣勢を挽回してやる政治上の理由は多かったのです。
 恋愛が介在することで左右できるほど、国際政治は甘くありません。また、カエサル自体が、愛しはしても溺れない性格でした。ただし、クレオパトラの方がそれを、自分の魅力のためであったと思い込んだとしても無理はありませんでした。塩野さんは「女とは、理によったのではなく、自分の女としての魅力によったと信じるほうを好む人種なのである。それに、女にそのように思いこませるなど、カエサルならば朝飯前であったろう」と著書に書いています。
 クレオパトラがこの誤認に気づくのは、カエサルの遺言状が公開された時点になってからです。その時点での彼女の屈辱感こそが、彼女の後半生を解く鍵になるとされています。
 酔わない男であったカエサルゆえに意のままにすることに失敗したクレオパトラは、今度は第二の男であるアントニウスに対して、酔わせることにエネルギーのすべてを集中します。この二人の壮大な愛の物語はシェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』に生き生きと描かれていますが、運命の出会いは、アントニウスが41歳、クレオパトラが28歳のときでした。クレオパトラはもはや愛人を続ける気はなく、正式の結婚をアントニウスに求め、ギリシア・スタイルの結婚式が行なわれました。自らの息子もアントニウスに認知させました。
 だが、これによって彼女はローマから滅ぼされることになります。クレオパトラには、カエサルの真情が理解できなかったのです。愛人のままで終わる方がよく、息子も認知させない方が、クレオパトラの王位の安泰のためには良しとした、カエサルの愛が理解できなかったのです。何しろ、エジプト王家存亡の鍵は、その気になりさえすればいつでもエジプトを軍事制覇できるローマを、下手に刺激しないことにあったからです。しかし、クレオパトラは、死んだカエサルに復讐でもするかのように、アントニウスとは正式に結婚した。子たちも、公式に認知させた。こうして、クレオパトラは、自らの破滅の決定的な一歩を踏み出したのです。
 自らの滅亡の寸前、クレオパトラはまだ皇帝アウグストゥスになる前のオクタヴィアヌスと王宮内で一度会ったとされています。二人きりの対面でした。古代の史家は、そのときにクレオパトラはオクタヴィアヌスに対し、カエサルやアントニウス相手に成功したと同じ手を試みたと書いています。試みはしたが、失敗したのだ、と。40に手のとどくようになっては、有名なクレオパトラの魅力もさすがに効力を失っていたというわけでしょうか。
 しかし、塩野さんは次のように述べています。「私は、彼女は試みもしなかったと思う。猫は可愛がってくれる人間を鋭くも見抜くが、女も猫と同じである。なびきそうな男は、視線を交わした瞬間に見抜く」、と。クレオパトラも、整った美貌のオクタヴィアヌスの冷たく醒めた視線を受けたとたんに、この種の戦術の無駄を悟ったのでしょう。不可能とわかっていても試みるのは、彼女のような一流を自負する勝負師のやることではありません。おそらく、オクタヴィアヌスと会ってクレオパトラは、すべての望みが断たれたことを悟り、自分を待つ運命もはっきりと見たのです。
 オクタヴィアヌスの攻撃によってアントニウスは絶命しますが、多量の出血で弱りきっていたアントニウスは、まだ数人だけ残っていた部下たちに向かい、女王の許に運んでくれるよう頼みました。血にまみれ顔も蒼白なアントニウスを、クレオパトラは涙を流しながらかき抱きました。アント二ウスは、彼が常に望んでいたように、愛するクレオパトラの腕の中で死にました。  そして、クレオパトラは最後の手紙をオクタヴィアヌスに遺しました。それには、アントニウスとともに葬ってほしいと記されていました。若き勝利者は、クレオパトラのこの願いだけは聴き入れました。その直後、女王の正装姿に身を包んだクレオパトラは毒蛇によって自殺を遂げたのです。かのアレクサンダー大王以来、実に300年続いたプトレマイオス王朝は、最後の女王クレオパトラで終わったのです。
 私は、アントニウスとクレオパトラの二人は、その出会いには打算があったかもしれませんが、その愛は本物だったと信じています。41歳と28歳で世界史に残る運命の出会いを果たした男女は、魂と魂との結びつき、すなわち結魂を遂げたのだと。

ヴィラとローマン・ガーデン

 このように、古代ローマ史は恋愛と結婚に関する物語ソフトの宝庫だと言えます。そして、その舞台こそが、ヴィラ・ルーチェです。
 ヴィラ(VILLA)とは、イタリア語で別荘・山荘のことです。ローマでは、さして経済力があるとは言えない家でも、都心から20〜30キロの距離に山荘を持っているのが普通でした。緑に囲まれての田園生活を愉しむというよりも、農業国家の民の伝統や習慣が抜けなかったからだとされています。
 そのヴィラの壁面には、絵が描かれました。それも人物像ではなく、風景画が一般的でした。人物が描かれても、風景の一点景としてです。この風景画がどのような感じのものかということですが、現代ローマのスペイン広場近くに、ホテル・インギルテッラ(イギリス・ホテル)という、『クォヴァディス』の著者シェンキヴィッチも滞在していた昔からのホテルがあります。このホテルの食堂は、「ローマン・ガーデン」と名づけられていますが、何も古代ローマ式の庭園に臨んでいるわけではありません。
 地下一階のそこは、壁で四方を囲まれた一角にすぎない。ただしその壁は四方とも、一面に絵で埋まっています。蔦のはう石塀や彫像などが描かれ、その向こうに見える丘の上には、神殿らしきものも描かれています。つまり、古代のローマの庭園の中で食事をしている気分になる、という意味でのローマン・ガーデンなのです。
 古代ローマのヴィラの室内の壁画も、この式のものでした。遠近法まで駆使した画法で海辺の別荘まで描いたりしますので、ローマの街中にいながら、外の世界とのつながりも愉しめるわけです。銭湯の浴槽の壁には富士山や松島を描かせ、自宅ならば畳のへりの模様に凝ったり襖に絵を描かせるのが伝統でもあるのが日本です。偽自然にしても家中それに囲まれ、室内に置く家具調度も数が少ないローマ式の家の方こそ、抵抗感なく融合できたかもしれません。
 これらのローマン・ガーデンの要素は今後大いに取り入れていきます。

進化するヴィラ・ルーチェ

 また映画「ローマの休日」に出てくる「真実の口」が大人気ですが、本物は6世紀に建てられたサンタ・マリア・イン・コスディン教会の入り口左手にあります。大理石でできた大きな円盤に、海神トリトーネの顔がかたどられていて、口がちょうど開いています。嘘をついている人が、その口に手を入れると抜けないという伝説が残っています。ここで、新郎新婦に手を入れていただき、永遠の愛を誓っていただくという趣向です。
 「真実の口」と並ぶローマの観光名所に「トレヴィの泉」があります。ポーリ公の宮殿背後の壁面を巧みに利用した高さ26メートル、幅20メートルのローマ最大の噴水は、二人のトリトンの御する海馬が引く貝殻の馬車の上に海神ネプチューンが立ち、その周辺を水が躍動しています。この噴水に背を向けて肩越しに一枚コインを投げ入れると、再びローマに帰ってこれるという伝説が有名です。そして最近では、二枚投げると両想いになれるとされているそうです。
 この恋人たちのためのスポットである「トレビの泉」をぜひ、ヴィラ・ルーチェに設置する予定です。
 恋人たちのスポットは、まだあります。カエサルのフォーラムです。ヴィーナスと神格化されたカエサルの彫像をまつる一種の神殿ですが、これがローマの恋人たちの逢引の場になっています。恋の女神でもあるヴィーナスと、これまた恋の達人であったカエサルが見守る前で、プロポーズをすれば必ずうまくいくと言われています。これも設置予定。
 つまり、ヴィラ・ルーチェを恋人たちの待ち合わせや告白の名所にしてしまう、当然ながら思い出の場所での結婚式を希望するカップルが増加する、これが私のたくらみです。
 アウグストゥスが作った「平和の祭壇」もいつの日か設置してみたいと思います。これは、何より結婚と家族というものに最大の価値を置いた初代皇帝の平和のモニュメントで、神々、生者、死者が分け隔てなく仲良く描かれています。皇帝自身の「家族の肖像」も刻まれている。これに「結婚は最高の平和である」という当社のスローガンをラテン語で刻んだものを配置してみたい。
 ヴィラ・ルーチェの代名詞である古代ローマ風結婚式とは、ギリシア・ローマ神話の神々の像の前で愛を誓い指輪を交換し、親族友人を招いた祝宴を張り、花婿が花嫁をだきあげて家やヴィラに入るというスタイルでした。これを完璧に実現させるために最後につくるべきもの、それは、ギリシア・ローマ神話のオリュンポス十二神すべてが立ち並ぶ究極の神殿です。
 神々の父ゼウス、太陽神アポロンをはじめとする諸神すべてが見守る中で結婚式をあげる聖なる場所。これをネクスト・ハウスウエディングの最終兵器としたいと思います。
 多神教ということで、ギリシア・ローマ神話は日本の『古事記』の世界、すなわち神道にもつながります。よってオリュンポス神殿と太陽の神殿を聖なる導線によってつなぎます。この仕掛けは必ずや、日本はおろか世界を「アッ!」と言わせ、大きな話題を呼ぶでしょう。
 本当はもっともっとすごい企画があるのですが、当社の社内報をこっそり入手して読んでいる他社の社長もいるという噂なので、このへんで止めておきます。
 いずれにしても、現在のヴィラ・ルーチェはまだほんのヴァージョン・ワンにすぎません。今後、周囲の人々や同業者が腰を抜かすほど、ヴァージョン・アップを遂げていきます。永遠の名画「ローマの休日」の原題は「ローマン・ホリデー」ですが、ヴィラ・ルーチェが目指すのは、羅馬的浪漫、つまり「ローマン・ロマン」です。
 ローマン・ロマンは、小倉に限らず、日本全国を席券するブライダル・トレンドに必ずなりますので、サンレーグループのみなさんは、ぜひこの訓話をよく読んで、お客様に説明できるようにしておいて下さい。
 古代ローマのように離婚率を減少させ、究極のデートスポットを創造し、さらには多神教つながりによる神道の再評価、そして最高の平和の実現までを視界に入れた、このうえなく欲ばりな冠婚イノベーションをお楽しみに!

  真実の口に手を入れ誓ひ合ふ
     若き二人の 羅馬的浪漫(ローマンロマン)  庸軒