第6回
一条真也
「終活のこころみ」

 

 いま、「終活」という言葉をよく聞きます。
 誰もが迎える人生の最期に向けて、生前に葬儀や墓の手配などを済ませておくことを指します。全国各地では、さまざまな「終活セミナー」が開催され、ちょっとしたブームの観さえあります。わたしも新聞社や福祉法人などが主催するセミナーで講師を依頼されることがしばしばです。

 これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。
でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。
その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインする「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。

 一方で、気になることもあります。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、その背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてならないのです。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。「迷惑」という言葉の肥大化は無縁社会を生んだ一因です。

 「迷惑」の一語が人間同士を引き離すのです。
その本音の部分には「面倒くさい」ということがあるのではないでしょうか。例えば、育児や親の介護などは「面倒」なことです。しかし、それは人間として当たり前の行為で、現実に多くの人がやっています。むしろ、そうした面倒なことの中にこそ、人としての幸せがあるのではないでしょうか。

 人は、ゆかりの人たちに見送られて旅立つのが幸せでしょう。葬式に一人も参列者がいないことはつらいこと。人間はみな平等であり、死は最大の平等です。身寄りのない人でも、社会の一員であり、人知れず社会から消えることはあってはなりません。それを防ぐのが葬式の最大の機能の1つです。

 そして、わたしは自分の葬儀を具体的にイメージすることが大切だと思います。周囲にどのように悼んでもらいたいかを具体的に想像すれば、他者との関係を良い方向に見直せるはずだからです。

 親族や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。

 生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになるのです。