第38回
佐久間庸和
「お墓の作法とは」

 

 いま、お彼岸のさなかである。お彼岸には、お墓参りをする。
 お墓の「かたち」は非常に多様化してきている。従来の石のお墓もあれば、海や山に遺灰をまく自然葬を求める人も増えてきている。
 遺骨を人工衛星に搭載して宇宙空間を周回させる天空葬もあれば、月面をお墓にする月面葬も登場した。
 わたしは、人間とは死者とともに生きる存在であると思う。それは、人間とはお墓を必要とする存在だということでもある。
 血縁も地縁も希薄になり、「無縁社会」という言葉がよく聞かれる。「葬式は、要らない」という葬儀不要論に続いて、「墓は、造らない」という墓不要論も取りざたされた。でも、わたしは生き残った者が死者への思いを向ける対象物というものが必要だと思う。
 以前、『千の風になって』という歌が非常に流行したとき、「私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません」という冒頭の歌詞のインパクトから墓不要論を唱える人が多くいた。
 しかし、新聞で東海地方の葬儀社の女性社員の方のコメントを読み、その言葉が印象に残った。それは「風になったと言われても、やはりお墓がないと寂しいという方は多い。お墓の前で泣く人がいてもいい」といったような言葉であった。その言葉を目にしたとき、すとんと腑に落ちたような気分だった。
 わたしは、風になったと思うのも良ければ、お墓の前で泣くのも良いと思う。死者をしのぶ「こころ」さえあれば、その「かたち」は何でもありだと思うのである。
 これからは既存のスタイルにとらわれず、自分らしいお墓について考える時代である。先祖代々のお墓を引っ越さなければならないという「墓じまい」や、新たにお墓を造るという「墓じたく」も大切な問題であろう。
 最近、わたしは『墓じまい・墓じたくの作法』(青春新書インテリジェンス)という本を上梓した。この本では、さまざまな「お墓の作法」について紹介した。
 作法といえば、決して「墓」とは呼ばずに「お墓」と呼ぶことが大切である。「墓」とは石材をはじめとした単なる物体であり、唯物論的な世界の言葉です。でも、「お墓」と呼べば、そこには「こころ」が入る。
 どうも、「墓」と呼び捨てにしている人は自分自身の墓が無縁化する運命にあるような気がしてならない。
 一方、「お墓」と呼ぶ人のお墓はいつまでもお参りに訪れる人が絶えないように思う。
 いわゆる「言霊」である。ぜひ、みなさんも「お墓」と呼んでいただきたい。