第142回
一条真也
『この地上において私たちを満足させるもの』乙川優三郎著(新潮社)
 前回、わたしは、ジョン・ウィリアムズの小説『ストーナー』のことを「完璧に美しい小説」と表現しました。同書の存在は、作家・乙川優三郎の『二十五年後の読書』と本書『この地上において私たちを満足させるもの』の二冊の小説によって知りました。
 著者は1953年東京生まれ。ホテル勤務などを経て、1996年小説家デビュー。2001年『五年の梅』で山本周五郎賞。2002年『生きる』で直木三十五賞。2013年初の現代小説『脊梁山脈』で大佛次郎賞。2016年『太陽は気を失う』で芸術選奨文部科学大臣賞。2017年『ロゴスの市』で島清恋愛文学賞を受賞するなど、作家として高い評価を得ています。
 前作『二十五年後の読書』において、『ストーナー』のように「美しい小説」「完璧な小説」をめざしたということだけわかった幻の小説『この地上において私たちを満足させるもの』をついに読めると、わたしの胸は期待で高鳴りました。本書はそれに違わず「老い」を含む「人生」を見事に描いた傑作でした。
 物語は明らかに著者自身の分身である71歳になる小説家・高橋光洋の半生を描いています。光洋は戦後、父と母を失い、家庭の崩壊を経験します。就職先で社会の表裏を垣間見た光洋は、未だ見ぬものに憧れて、パリ、コスタ・デル・ソル、フィリピンなどを漂泊。異国で生きる人々との出会いから、40歳の死線を越えての小説家デビュー、小説を書く苦しみ、そして老いへの不安・・・著者の原点と歳月が刻まれていました。
 老境に至り、晩年を迎えた光洋は素晴らしいお手伝いの女性を迎えます。彼女はソニアといって、フィリピンから来た学生でした。かつて、光洋が若い頃にフィリピンの貧しい母娘に大金を与えたことがあったのですが、その後、サラジェーンという名の娘はそのお金を学費にして女医になっていました。
 そのサラジェーンが「人生の恩人」である光洋への恩返しとして、ソニアという家政婦を日本に送ってくれたのでした。純真なソニアに日本語や日本文化を教えながら、光洋は心満たされる日々を過ごします。
 断っておきますが、大金を与えた母娘とも、ソニアとも、光洋は一切、男女の関係を持っていません。「清い関係」などという陳腐な表現を使うよりも、お互いに人間として認め合い、高め合っている関係と言えるでしょう。わたしたちが思っているほど、この世界は悪くないし、人はずっと優しい・・・。
 この小説を読んで、わたしはハートフルな気分になりました。本作の構成する日本語の美しさはもちろん、生きる気力と人生を卒業する勇気の両方を与えてくれます。