第2回
一条真也
「古代は好老社会だった!」

 

 今の日本は史上稀に見る「嫌老好若社会」です。人もモノも新しい方がいいという近代工業社会の影響で、「若さ」を好み、「老い」を嫌うという風潮が生まれたのです。でも、その風潮はあくまで近代工業社会特有の現象であって、人類がつねにそうであったわけではありません。人類史を見ると、古代には「好老社会」というか、とてつもない「好老文明」とでもいうべきものが存在しました。
 たとえば、古代エジプトです。ピラミッドをはじめとした壮大な「死」の文化を誇った古代エジプト人は「老い」に対しても豊かな文化を持ち、老人を非常に大切にしました。それは、年を取り、経験を積むと、人間は賢くなると考えられていたからです。賢くなった老人とは、知恵の宝庫であり、技術の伝承者でもある。つまり、社会の貴重な財産として扱われていました。老人は「弱者」だからいたわり、大切にするのではありません。何より「経験」と「知恵」を持っている老人を尊敬するからこそ大切にするという、本物の敬老精神が古代エジプト人にはあったのです。
 そして、古代エジプトには「老人の杖」という警察官までいました。もし、「あそこの家では老人をいじめているようだ」などという情報が入ったら、それを聞きつけた「老人の杖」が乗り込み、噂が事実だとわかれば、堅い木材の杖で若者を百叩きにするのです。このように古代エジプトでは、老人は社会全体から尊敬を受けていただけでなく、実質的に守られていたのです。
 しかし同じ古代社会でも、ギリシャになると「老人は邪魔」「社会は若者のもの」という発想になりました。ギリシャの文化を継承したローマも「嫌老好若社会」であったという説があります。古代ギリシャ・ローマ時代の彫刻では、相当の高齢だったはずの皇帝や将軍も、筋骨隆々とした若々しい体格に彫られています。写実主義のなかで顔は見事なほどに個性的に描かれても、身体は若々しく描いたのは、若々しく壮健なことを好む「好若社会」のせいだろうというのです。しかし、古代ローマには六十歳以上の高齢者しか参加できない「元老院」という組織があり、実質上のローマの政治をとりしきっていました。
 また、一般に高齢者は風呂を好むものですが、ローマには有名なカラカラ浴場やディオクレティアヌス浴場など、「風呂文化」がしっかりと根づいていました。そんなわけで、私は、古代ローマには「好老社会」の要素があったのではないかと思っています。
 古代ローマを代表する思想家・キケロは晩年、『老年について』という本を書きました。ここでキケロは大カトーを前にして、「老人には体力がない」「老人にはすることがない」「老人には何の楽しみもない」「老人は死が近い」という四つの悲観論を、ひとつひとつ実例をあげて見事に一蹴します。近年になって岩波文庫から新訳が出たこの『老年について』こそは、実践の知恵にあふれる高齢者のための幸福論としてよく知られています。キケロがこんな本を書いた背景には、「嫌老社会」があったのかもしれません。でも、「老い」を嫌う価値観が完全に浸透していれば、キケロのような思想は出てきようがありません。おそらく、古代ローマでは「嫌老」思想と「好老」思想の両者がせめぎ合うようなところがあったのではないでしょうか。
 東洋に目を移すと、古代中国も大いなる「好老社会」でした。なかでも、老子の思想がもっとも老成した思想と言えるでしょう。人間が生まれ、老い、死ぬという生命の過程をどのように考えるかが中国古代哲学の重要なテーマでしたが、老荘の哲学では生命の基盤に「気」というものを置き、そこから「生」と「老」と「病」と「死」をとらえました。 もともと、老子の「老」とは、人生経験を豊かに積んだ人という意味です。また老酒というように、長い年月をかけて練りに練ったという意味が「老」には含まれています。老荘の哲学は「老い」というものを、醜く年を取ること、老衰していくことというようにネガティブにとらえるのではなく、充実であり円熟であるとひたすらポジティブに考えるのです。
 孔子の儒教においても、「老い」を決してネガティブにとらえず、老いることを衰退とせず、一種の人間的完成として見ました。実際、孔子は非常に老人を大切にしました。孔子の日常生活を具体的に記した『論語』郷党篇によれば、町内の人々と一緒に酒を飲むときは、杖をついた老人が退席するのを待って、はじめて退出したといいます。
 儒教は農耕社会を基本としています。農耕社会において人間は年を取れば取るほど経験が豊かになりますから、当然、老人を尊重することになってきます。「敬老」「尊老」という考え方が徹底していましたが、これは日本にも古くから持ち込まれて、戦前まではっきりとした形で残っていたのです。