第3回
一条真也
「古代ローマから江戸へ」

 

 以前、ローマで塩野七生さんにお会いしました。塩野女史といえば、故・司馬遼太郎と並んで、その愛読者に政治家や経営者を多く持つ高名な作家です。
 現在はローマに住み、ローマ帝国興亡の1000年を描く『ローマ人の物語』にとりくんでおられます。その塩野さんに、私はどうしても尋ねたい質問が一つありました。それは、古代ローマ人たちの「老い」に対する考え方でした。いったい、ローマ人たちは高齢者をどう見ていたのか。
 その答は、こうです。17歳から45歳まで兵役が義務づけられていたローマ帝国においては、老人とは文字通り「健康な精神は健康な肉体に宿る」という理念を体現した人と見られていました。常に戦争の絶えなかったローマにおいて、幾多の戦闘をくぐり抜けて生き残ってきた老人たちは、それだけで強い肉体と意志と勇気と知恵をあわせ持った理想の人間として尊敬を受けていたというのです。そしてローマ人たちの多くは、45歳を過ぎてから政治家になって国家の要職についたり、商売をはじめたり、それぞれが豊かなグランドライフを送ったとのことでした。
 古代ローマは好老社会だったのです!その歴史的事実を塩野さんに教えていただいたわけですが、「パスク・ロマーナ」と呼ばれるローマの平和な時代は、高齢者にとっても生きがいの持てる幸福な時代だったことがわかりました。
 さて、日本において「パスク・ロマーナ」のような平和な時代を求めるとすれば、何と言っても300年近く続いた江戸時代があげられます。そして江戸時代こそは、日本史に特筆すべき「老い」が価値を持った好老社会でした。儒教に基づく「敬老」「尊老」の精神が大きく花開いたのです。
 徳川家康は江戸幕府を開く前に『論語』を愛読していたといいますが、75歳まで生きたことで知られています。今でいえば100歳ぐらいの長寿ですが、当時の平均寿命から考えると、老人として生きた時期がものすごく長かったわけです。当然ながら「老い」というものに価値を置きました。幕府の組織をつくるにあたっても、将軍に次ぐ要職を「大老」とし、その次を「老中」としました。家康がいかに「老」という文字を大事にしていたかがよくわかります。
 また、町人たちも古典落語でおなじみのように横丁の隠居を尊敬し、何かと知恵を借りました。江戸には、旦那たちが40代の半ばで隠居してコミュニティの中心となる文化があったのです。
 江戸という社会が「好老社会」であったのに対し、現代の日本は「好若社会」であると言えます。それはエネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、つまり力や量の論理がまかりとおる社会であり、「若さ」の文化と言い換えることもできます。
 現代日本社会から見て、江戸という社会の特徴は「リサイクル」と「ボランティア」という二つの言葉で言い表わされます。その二つの言葉がいま、注目されているのは、日本がかつて江戸時代に持っていた循環型の暮らしや、相互扶助の豊かな伝統が失われたことを逆に示しているのです。江戸の暮らしは自然のリズムにそって流れていましたし、人もモノもゆっくりと動いていました。人がその一生を通じて蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立ちました。
 そうした社会には年寄りの役割というものが厳然としてありましたし、社会そのものも、年寄りのようにスローな動きをしていました。若さが物を言うスポーツや芸能などなく、今でいうところの情報量も、若者よりも老人の方が豊かでした。また固定した社会は競争社会ではなく、のんびりしていました。
 「先憂後楽」という語に集約されるように、江戸の人々にとっては、今日と違って人生の前半より後半に幸福がありました。若返りという思想はなかったのです。こうした「老い」が尊重された社会というのはまた、「若さ」をたたえる社会よりも、人にも自然にもやさしい社会であり、文化であったと言えるでしょう。
 江戸時代にはすぐれた思想家が多く出ましたが、文芸というスタイルで「老い」の思想を唱えたのが『日本永代蔵』の井原西鶴で、「人は13歳迄は弁へなく、それより24、5までは親の指図を受け、その後は我と世を稼ぎ、45迄に一生の家を固め、遊楽する事に極まれり」と述べています。
 また、「若き時、心を砕き身を働き、老ひの楽しみ早く知るべし」と、ずばり「老いの楽しみ」こそ人生の目標であると言っています。ここには、今日のように幸福を人生の前半に置くのではなく、後半に置くという生き方がはっきりと説かれているのです。
 西洋のローマにしろ日本の江戸にしろ、「老い」に価値を置き、高齢者を大切にする社会ほど長続きすることは歴史が証明していると私は思います。