第10回
一条真也
「幸福になれる秘密」

 

 「嫌われ松子の一生」という、少し前に話題になった映画があります。昭和22年・福岡県大野島生まれの川尻松子の生涯を描いた物語です。
 教師からソープ嬢、果ては殺人まで犯してしまう松子の壮絶な転落人生に圧倒されながらも、生きる意味について深く考えさせられる名作でした。
 この映画にはベストセラーになった原作小説がありますが、松子には実在のモデルがいたそうです。それは数年前に東京の井の頭公園の池で変死した女性の路上生活者です。この女性は新宿駅で長く路上生活を送っていました、女性の路上生活者は珍しいということでワイドショーなどでも何度か取り上げられたようです。
 彼女はかつて、九州で中学か高校の教師をしていましたが、何らかの事情で教師を辞め、美容師などの職につきました。その後、東京に出てきて経過はわかりませんが新宿駅で路上生活者となった。そして、通りがかりの一般男性に暴行を受け、足に大きなダメージを負い、路上を這う生活を余儀なくされたのです。
 テレビに出て数年後に、車椅子から落ちた状態で水死していた彼女が発見されました。自殺か他殺かは今もわかりません。彼女の遺品からは「生まれて、すみません」と走り書きしたメモが出てきたそうです。この言葉は、映画にも登場しました。
 なんと悲しい言葉でしょう!
 社会にも家族にも見捨てられ、絶望の底で死んでいった路上生活者の女性。彼女は、新たな不幸が自分を襲ってくるたびに泣きながら「生まれて、すみません」とつぶやいたに違いありません。
 映画を観終えたとき、私は一人の女性のことを思い浮かべていました。中村久子という方です。明治30年に生まれ、両手両足の切断という重い障害を抱えながらも、72年の人生をたくましく生き抜いた人物です。
 飛騨高山の貧しい畳職人の家に生まれた久子は、3歳のとき、「突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)」という病気を患います。肉が焼け、骨が腐り、体の組織が壊れてしまうという難病でした。父は藁(わら)をもつかむ思いで新興宗教に走ります。久子の治療費と集会所へのお布施で、一家は貧困を極めていきます。
 ある日、久子のけたたましく泣き叫ぶ声に、母が台所から駆け込んでくると、白いものが転げていました。左手首がぽっきりと包帯ごと、もげて落ちていたのです。母はあまりの驚きと悲しみのために、気を失いました。
 久子は病院に担ぎ込まれ、その月のうちに左手首、ついで右手首、次に左足は膝かかとの中間から、右足はかかとから切断されました。その後、何度も手術を繰り返します。痛みのため昼も夜も泣き叫ぶので、近所から「やかましい子」「汚い子」だと嫌がられ、毎年のように住まいを替えなければなりませんでした。
 そのうち、父が亡くなり、母も病気になります。生活苦から見世物小屋に自ら入り、「だるま娘」として23年間も好奇の眼にさらされました。それでも、障害者には他に生きる道がないため、じっと運命に耐えました。
 「人間はいかなる場合でも、いかなる職業に携わっていても魂を磨くことを忘れてはならぬ。自分を卑(いや)しめることが一番の罪悪だ。泥の中に咲く蓮(はす)の花の誇りをもって生きるよう、努力しなくてはならない」という友人の言葉に励まされ、自分の力で人生を好転させていきます。彼女は独学で読み書きを覚え、たくさん本を読んで教養と精神性を高めました。
 久子は生きる希望を絶対に捨てませんでした。結婚や出産、そして育児までをも立派にこなしました。両手がなくとも、料理も作り、裁縫までして生計を立てました。
 「奇跡の人」として知られるかのヘレン・ケラーが来日して、彼女に初めて面会したとき、「私より不幸な人、そして偉大な人」と涙を流しながら言ったそうです。
 晩年は全国を講演して回り、障害者をはじめ多くの人々に勇気を与え続けた中村久子。  彼女は「人生に絶望なし」と強調し、日常生活においては「いのち、ありがとう」を口癖としました。常に感謝の心を忘れなかったのです。
 松子の「すみません」と久子の「ありがとう」・・・この「すみません」と「ありがとう」の間に、人間が幸福になれる秘密があるような気がしてなりません。
 ちなみに、久子が両手がないことで唯一の不便を感じたことは、神仏を拝むために、また感謝の心を表すために両手を合わせて合掌ができないことだったそうです。