第9回
一条真也
「俳句ほど、すごいものはない!」

 

 私は、つねづね「俳句ほど、すごいものはない」と思っています。今回は、そのお話をしましょう。
 徘徊(はいかい)老人が問題になっていますが、徘徊とは歩き回ることです。そもそも歩くという行為は、人間にとってどんな意味があるのでしょうか。
 最近、「スローライフ」という言葉がよく使われますが、その仕掛人の一人である辻信一氏に『スローライフ100のキーワード』という著書があります。その本によれば、スローライフへの入り口のひとつに「歩く」ということがある。
 歩くということは2種類あって、ひとつはA地点からB地点への移動。もうひとつは散歩です。
 まず1番目の移動では、明らかにB地点に達するということが目的であり、どうすれば最低のエネルギー・ロスで、最短の時間でB地点に達することができるかが問題になります。歩く代わりに車、車の代わりに飛行機を使います。しかしそのために費やされる時間は、いかに短縮されたとしても、それが無駄であることに変わりはありません。それは、費やしたくないのに費やしてしまう、必要悪としての時間でしかないのです。
 一方、散歩の場合はどうでしょうか。散歩の「散」はまるで目的が散ってしまっていることを示しているかのようです。あえて言えば、歩くというただそのことに満足している状態です。道草、横道、脇道、寄り道、回り道、遠回り、ブラブラ・・・立ち止まってもよし、引き返してもよし、迷ってもよし。これが散歩ということであり、徘徊とまったく意味が同じであることがわかります。目的なく歩きまわる徘徊とは、基本的に散歩であり、自由な精神の行為なのです。
 歩くひとつひとつの道が違い、同じ道でも昨日と今日とでは違う。雨と晴れでは違うし、冬と夏では違うし、ツツジとアジサイでは違う。そんな季節の移り変わりを散歩の途中で感じたとき、人の心には詩情が浮かびます。
 五七五という極小の形で季節を表現する詩歌は俳句と呼ばれ、俳句・連句、ひいては俳文学全体の総称を「俳諧(はいかい)」といいます。なんと、ともに人間の自由な精神と季節との出会いを本質とすることから、「徘徊」という一見ネガティブな行為は「俳諧」という風雅の世界に転じてしまうのです。歩き回って季節を感じる力という点において、徘徊力とは俳諧力なのです!
 これは、ダジャレでも言葉遊びでも何でもありません。「俳聖」と呼ばれた芭蕉は、とにかく歩いた人でした。江戸時代においては立派な老人であった46歳のときに、有名な「奥の細道」の旅に出ました。
 この旅で芭蕉は、江戸から奥羽・北陸をめぐって大垣に到着、そこから伊勢に旅立とうとするまで、150日、600里をとにかく歩きに歩きまわりました。600里とは実に約2400キロメートルですが、病身の芭蕉はこの長大な距離をひたすら歩き、人跡まれな辺鄙(へんぴ)な地方に苦しい旅をつづけたのです。この旅のあいだに自己の詩魂を深めきたえることができ、「不易流行」の論や、「さび」「しをり」「ほそみ」といった芸術観はこの旅のうちに確立したといいます。
 また、芭蕉はこの旅で多くの俳句を残しましたが、紀行の地の文と発句(ほっく)とが見事に詩的に構成されており、『奥の細道』は俳諧における最高傑作になっています。老いて病んだ芭蕉の風狂の徘徊力が、彼の俳諧力を最大限に引き出したのではないかと私は思います。
 そして、『奥の細道』のなかには、「道祖神のまねきにあひて、取(とる)もの手につかず」という一文がありますが、この芭蕉の心を落ち着かせなくさせて旅へと誘い出した「道祖神のまねき」は、現代の多くの徘徊老人の心のなかでも旅への勧誘活動をつづけているのです。
 さらに徘徊は人生に「ゆとり」を生み出しています。ブラブラと散歩するときのような、移動という目的・手段の関係から解放された、何でもありの空間や時間を、現代の日本人はどれだけ持っているでしょうか。効率性や生産性といった経済のものさしによって、こんなにも貴重な自由が無駄という一言で片付けられようとしているのです。
 散歩を取り戻すことはスローライフの第一歩でしょう。そして、それは「ゆとり」ある人生、大いなるグランドライフへの第一歩でもあります。俳句という自由な心の遊びにおいても、まったく同じことが言えるのです。
 俳句に季語があるように、人生にも春夏秋冬のさまざまな想い出のステージがあります。俳句はそれらに潤いを与えてくれます。さらには、辞世の句というものが「死ぬ覚悟」さえも与えてくれる。俳句ほど、すごいものはありません。日本人なら、辞世の句の一つも残して旅立ってゆきたいものです。