第8回
一条真也
「老いる覚悟と死ぬ覚悟」

 

 中国に行ってきました。仕事の合い間に兵馬俑(へいばよう)を訪れました。
 言わずと知れた秦の始皇帝の死後を守る地下宮殿です。二重の城壁を備えた始皇帝の巨大陵墓の下には、土で作られた兵士や馬の人形が立ち並んでいます。実に八千体におよぶ平均180センチの兵士像が整然と立ち並ぶさまはまさに圧巻です。
 この兵馬俑を呆然とながめながら、私はいろいろと考えました。
 中国における春秋・戦国時代の舞台とは、それが当時の全世界でした。秦(しん)、楚(そ)、燕(えん)、斉(さい)、趙(ちょう)、魏(ぎ)、韓(かん)、これらがそのまま続いていれば、その世界は七つほどの国に分かれ、ヨーロッパのような形で現在に到ったことでしょう。当然ながらそれぞれの国で言葉も違ったはずです。そうならなかったのは、秦の始皇帝が天下を統一したからでした。
 その意味で、始皇帝は中国そのものの生みの親と言えます。
 中国すなわち当時の世界そのものを統一するとは、どういうことか。他の国々をすべて武力で打ち破ったことは言うまでもありませんが、それだけでは天下統一はできません。始皇帝は度量衡(どりょうこう)を統一し、「同文」で文字を統一し、「同軌」で戦車の車輪の幅を統一し、郡県制を採用しました。そのうちのどれ一つをとっても、世界史に残る難事業です。
 その難易度たるや郵政民営化などの比ではない。始皇帝は、これらの巨大プロジェクトをすべて、しかもきわめて短い期間に一人で成し遂げたわけです。
 かくして、広大な中国は統一され、彼はそのシンボルとして「皇帝」という言葉を初めて使いました。以後、王朝や支配民族は変われど、中国の最高権力者たちは20世紀の共産主義革命が起こるまで、ずっと皇帝を名乗り続けました。すなわち、秦の始皇帝がファースト・エンペラーであり、清の宣統帝溥儀(せんとうていふぎ)がラスト・エンペラーでした。この二人の皇帝の間にはじつに二千年を超える時間が流れています。
 また、始皇帝の事業のなかで何と言っても有名なのが、かの万里の長城です。国境線をすべて城壁にするというのは、実に雄大な英雄ならではの発想です。月から地球をながめるというのは私の人生最大の夢ですが、万里の長城こそは月面から肉眼で見える唯一の人工建造物だとされています。この上なく壮大なスケールと言う他はありません。
 それほど絶大な権力を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福なものではありませんでした。それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ私は思います。
 なぜなら、彼は「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。
 始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。そのことは世の常識を超越した死後の軍団である兵馬俑の存在や、徐福(じょふく)に不老不死の霊薬をさがせたという史実が雄弁に物語っています。
 いくら権力や金があろうとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とはまったくの無縁です。逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、老いる覚悟と死ぬ覚悟を持っている人は心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生かといえば、疑いなく後者でしょう。
 心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティを実現するには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのです。そのことを兵馬俑をながめながら、考えました。
 ある意味では、異常なまでに「老い」と「死」を怖れたからこそ、現実的にはあれほどの大事業を遂行するエネルギーが生まれたのかもしれません。
 始皇帝は天下を統一し、皇帝となりましたが、それまで誰もが使っていた「朕(ちん)」という言葉を、皇帝以外は使ってはいけないとするなど、皇帝の絶対化を図りました。それは国家を運営していく上で必要なことでしたが、始皇帝は次第に自分を絶対的な存在であると考えるようになっていったのです。天下統一の大事業を成し遂げた自分は、普通の人間ではない、絶対者であるという気になっていったのです。絶対者とは、具体的に言えば、不老不死の人間、つまり神や仙人のような存在です。
 始皇帝は「死ぬ」と言うのを非常に嫌いました。家来たちも「死ぬ」とは口にしません。それは禁句になっていたのですが、いくら禁句にしても死は迫ってきます。死から逃げ回った生涯でしたが、とうとう河北省の沙丘というところで死の恐怖にうちまみれながら始皇帝は死んでいったのです。
 心ゆたかに生きるには、「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持たなければならないのです。とても難しいことですが。