第7回
一条真也
「月を見て、死を想う」

 

 過日、北九州市八幡のサンレーグランドホテルにおいて「合同長寿祝い」と「観月会」をミックスしたイベントを行ない、多くの高齢者の方々にお越しいただきました。サンレーグループが提唱している新世紀の葬送儀礼としての「月への送魂」も実施され、夜空に浮かぶ満月に緑色のレーザービームが届いたとき、大観衆のあいだから大きな歓声と拍手が巻き起こりました。
 「月への送魂」は、月に全人類の慰霊塔を建立するという「月面聖塔」とともに、月をあの世に見立てる「ムーン・ハートピア・プロジェクト」の大きな柱です。なぜ、月があの世なのでしょう。
 世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きており、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。
 多くの民族の神話と儀礼のなかで、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えるでしょう。また、潮の満ち引きによって、月は人間の生死をコントロールしているという事実があります。さらには、月面に降り立った宇宙飛行士の多くは、月面で神の実在を感じたと報告しています。月こそ、天国や極楽、つまりそこは魂の理想郷「ムーン・ハートピア」なのです。
 さて、葬式仏教といわれるほど、日本人の葬儀や墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教の関係もまた非常に深いと言えます。お釈迦さまことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなりました。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放に他ならず、それは宇宙飛行士たちが「コズミック・センス」や「スピリチュアル・ワンネス」といった神秘的な感覚を感じた宇宙体験にも通じます。
 東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行ないます。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。太陽の申し子とされた日蓮でさえ、月が最高の法の正体であり、悟りの本当の心であり、無明(むみょう)つまり煩悩(ぼんのう)や穢土(えど)を浄化するものであることを説きました。
 仏教のみならず、神道にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。太陽と月は地球人類の普遍的な信仰の対象です。太陽は西の空に沈んでいっても翌朝にはまた東の空から変わらぬ姿を現しますが、月には満ち欠けがあります。つねに不変の太陽は神の生命の象徴であり、死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのです。
 あらゆる民族が信仰の対象とした月は、あらゆる宗教のもとは同じという「万教同根」のシンボルといえるでしょう。キリスト教とイスラム教という一神教同士の対立が最大の問題になっている現代において、このことは限りなく大きな意味を持っています。
 かくして、月に「万教同根」「万類同根」の記念碑として「月面聖塔」を建立し、「月への送魂」によって地球から故人の魂を送るという「ムーン・ハートピア・プロジェクト」が2020年の実現をめざして誕生しました。
 月に人類共通のお墓があれば、地球上での墓地不足も解消できますし、世界中のどこにいても夜空に向かって合掌できます。また、遺体や遺骨を地中に埋めることによって、死後の世界に暗い「地下へのまなざし」を持ち、はからずも地獄を連想してしまった生者に、明るい「天上へのまなざし」を与えることができます。それは、人々が月をあの世に見立てることによって、死者の霊魂が天上界に還ってゆく理想的な死のイメージ・トレーニングを可能にします。
 「葬送」という言葉がありますが、今後は「葬」よりも「送」がクローズアップされるでしょう。「葬」という字には草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘います。
 「月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」、葬祭は「送祭」となる。そして、「死」は「詩」に変わるのです。
 みなさんもぜひ、月を見上げて、死を想ってみてください。