第6回
佐久間庸和
「誕生日を祝うということ」

 

 先月、北九州市が市制50周年を迎えた。
 1963年2月10日、門司、小倉、若松、八幡、戸畑の旧5市が対等合併して発足。ちょうど、その3ヵ月後の5月10日にわたしがこの世に生を受けた。
 北九州市の「誕生祭」には約7万5000人の人々が集まり、50周年を盛大に祝った。もうすぐ自分も50歳になるわけだ。わたしは、他人のお祝いをするのは仕事柄もあって得意というか大好きなのだが、自分が祝われることは正直いって苦手である。でも、誕生日というものには深い意味があると思う。
 まず、「祝う」という営みには人類の良き秘密が隠されている。「祝う」という営み、特に自分ではなく他人を祝うことが人類にとって非常に重要である。祝いの心とは、他人の「喜び」に共感することだからだ。
 それは、他人の「悲しみ」や「苦しみ」に 対して共感するボランティア精神と対極に位置する。しかし、じつは両者とも他人の心への共感という点では同じではないか。
 「他人の不幸は蜜の味」などといわれる。たしかに、そういった暗い部分が人間の心に潜んでいることは否定できないが、だからといって居直ってそれを露骨に表現しはじめたら、人間終わり。社会も成立しなくなる。
 祝い事といえば、結婚、就職、入学、合格、受賞、叙勲などが思い浮かぶ。それらは、人生でも最も晴れがましい出来事だ。しかし、何か特別な出来事がなくとも、お祝いはできる。誰にでも訪れる誕生日が最たる例だ。
 誕生日を祝うということは、「あなたがこの世に生まれたことは正しいですよ」と、その人の存在を全面的に肯定することである。
 「人間尊重」をミッションとするわが社では、毎月の社内報に全社員の誕生日情報(年齢は秘密)を掲載し、「おめでとう」の声をかけ合うように呼びかけている。誕生日当日には、わたしが社員のみなさんにバースデーカードを書き、ささやかなプレゼントを添えてお渡しする。
 みなさんは誰かの誕生日を祝っているだろうか。家族や友人や周りの人たちの誕生日に、心をこめて「おめでとう」と言っているだろうか。周囲の人たちの誕生日にはぜひ、「おめでとう」の声をかけていただきたい。
 そうすれば、相手からは「ありがとう」の声が届くはずだ。そして、あなたの誕生日にもきっと、「おめでとう」の声がかけられるだろう。そう、ハートフル社会とは、「おめでとう」と「ありがとう」がたくさん行き交う社会なのである。