第24回
佐久間庸和
「小倉に落ちるはずの原爆」

 

 7月26日、「毎日新聞」の朝刊1面に「八幡製鉄 原爆当日に煙幕」の大見出しが躍りました。また、「8月9日 元職員『コールタール燃やす』」「米軍機『視界不良』一因か」「広島投下で警戒強める」の見出しで、まことに衝撃的な記事が掲載された。

 それは、長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、八幡製鉄所ではコールタールを燃やして煙幕を張ったという事実を紹介する記事だった。製鉄所の元従業員の方が証言されたという。

 米軍は当初、兵器工場があった小倉を原爆投下の第1目標としていた。視界不良で第2目標の長崎に変更したが、この煙幕が視界不良の一因だった可能性があるのだ。記事には「原爆を巡る新たな証言として注目を集めそうだ」と書かれている。
 実は、この記事にはわたしも関係している。4月30日、サンレー本社で「毎日新聞」の取材を受けた。取材テーマは「小倉原爆の真相」だった。

 その日から始まった一連の取材の成果が今回の記事であった。

 事の発端は、わたしのHPに届いた1通のメールだ。工藤由美子さんという方からのメールで、3月15日のことだった。工藤さんは小倉原爆についてのわたしのブログ記事を読まれたそうで「小倉への原爆投下が見送られたわけについて」という件名のメールを送ってくださった。

 そこには、工藤さんの父上である宮代暁さんの思い出が書かれていた。宮代さんは中学生の頃、八幡製鉄所を守るために煙幕隊としてコールタールを燃やす作業をしたという。その結果、小倉への原爆投下予定日も空を真っ黒に覆っていたそうだ。工藤さんのメールの最後には、「もう、父も、85歳。もしかしたら、大事な生き証人なのかもしれないと思い、メールしました」と書かれていた。

 わたしはご本人の了承を得た上で、工藤さんの連絡先を記者の方に伝えた。記事には宮代暁さんも写真入りで紹介されており、わたしは「ああ、間に合った」と、胸が熱くなった。

 小倉原爆は、わたしにとって大問題である。なぜなら、わたしの「生き死に」に関わる重大事だからだ。当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいた。よって原爆が投下された場合は確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのである。まさに、「他人事」ではない「自分事」なのだ。

 わたしも含めて、小倉の人々は、長崎原爆の犠牲者の方々を絶対に忘れてはならないと思う。わたしは、常に「死者のまなざし」を感じながら生きたい。