第26回
佐久間庸和
「人生を修めるということ」

 

 このたび、『決定版 終活入門』(実業之日本社)を上梓した。
 いま、世の中は大変な「終活ブーム」だという。多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」を悟り、「人生の終わり」を考える機会が増えたようだ。
 多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされている。また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度か出演させていただいた。
 さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集している。ついには終活専門誌まで発刊され、多くの読者を得ているようだ。
 その一方で、「終活なんておやめなさい」といった否定的な見方も出てきている。

 高まるブームの中で、気になることもある。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことだ。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いした。
 もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされている。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまう。なぜなら、死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからだ。
 そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を考えてみた。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味だ。

 考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないかと思う。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」がある。
 わたしは、かつての日本は美しい国だったように思う。しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りにし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思える。

 それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないだろうか。

 老いない人間、死なない人間はいない。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかならない。
 老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないか。

 すべての美しい日本人のために、わたしは『決定版 終活入門』を書いた。1人でも多くの方が本書を読まれ、その人らしく人生を修めるヒントを得ていただければ、著者としてこんなに嬉しいことはない。