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一条真也
感染症と葬儀
 このたびのステイホーム期間中に感染症についての本を渉猟したが、重要な事実を発見した。それは、ペストに代表されるように感染症が拡大している時期は死者の埋葬が疎かになるが、その引け目や罪悪感もあり、感染症の終息後は、必ず葬儀が重要視されるようになるということだ。
 人類にとって葬儀と感染症は双子のような存在であり、感染症があったからこそ葬儀の意味や価値が見直され、葬儀は継続・発展してきたのだという見方もできる。
 拙著『唯葬論』において、わたしは、「なぜ人間は死者を想うのか」という問いを立て、人間には「礼欲」という本能がある可能性を指摘した。
 人間を「社会的動物」と呼んだのはアリストテレスで、「儀式的存在」と呼んだのはウィトゲンシュタインだが、儀式とは人類の行為の中で最古のもの。ネアンデルタール人も、現生人類(ホモ・サピエンス)も埋葬をはじめとした葬送儀礼を行っていた。
 わたしは、祈りや供養や儀式を行うことは人類の本能だと考えている。この本能がなければ、人類は膨大なストレスを抱えて「こころ」を壊し、自死の連鎖によって、とうの昔に滅亡していただろう。
 また、冠婚葬祭とは「祈り」や「供養」の場であるとともに、「集い」や「交流」の場でもある。人間には集って他人とコミュニケーションしたいという欲求があるのだ。冠婚葬祭に参加しづらいコロナ禍では、人々は多大なストレスを感じていると言えよう。
 チャールズ・ダーウィンは『種の起源』に続いて発表した『人間の由来』の中で、互いに助け合うという「相互扶助」が人間の本能だと主張した。「社会的動物」である人間は常に「隣人」を必要としている。冠婚葬祭は「死者への想い」と「隣人性」によって支えられているのだ。